南部 Nambu

盛岡藩主家の南部家は清和源氏の源義光の子孫で,甲斐国南部郷を本拠地とした南部光行[1165-1236]が祖.

南部光行は,清和源氏義光の孫・清光の子孫である加賀美二郎遠光[1143-1230]の三男.清和源氏義光の孫・清光の子孫は甲斐源氏と呼ばれ,武田家,加賀美家,安田家,浅利家などがその一門.さらに,加賀美家から南部家,秋山家,小笠原家が輩出された.南部光行は石橋山の戦いにおける戦功によって甲斐国南部牧[山梨県南巨摩郡南部町]を源頼朝より賜った.これによって,南部光行は南部三郎を名乗ったのである.もっとも,父の官途信濃守から信濃三郎とも呼ばれたという.

文治5[1189]年の源頼朝による奥州征伐に加賀美遠光父子四人が従軍.戦功を挙げ,陸奥国糠部五郡を所領として賜った.これが南部家が奥州を地盤とする基礎となる.南部氏の奥州における最初の拠点は平良ヶ崎城と言われている.しかし,南部光行は鎌倉幕府の置かれた鎌倉に居住していた.

南部光行の長男・行朝は一戸氏の,次男の実光は三戸氏の,三男の実長は八戸氏の,四男の朝清は七戸氏の,五男の宗清は四戸氏の,六男の行連は九戸氏の祖となっていく.南部実光とその子・時実は鎌倉幕府第5代執権である北条時頼[1227-1263]の側近として活躍.

南部一族の宗家は三戸南部氏.南部実長[1222-1297]は甲斐国巨摩郡飯野御牧内波木井[Hakiri]を拠点としていたことから波木井を称し,その子孫は八戸南部氏,根城南部氏へと繋がっていく.実長の子の波木井南部実継[-1332]は元弘元[1331]年に勃発した元弘の変において,老齢の身でありながら護良親王・尊良親王とともに赤坂城に篭城.鎌倉幕府軍に捕縛され斬首されている.この背景には三戸南部氏への対抗と,父の実長が日蓮に帰依していたことが影響していると言えよう.

関連氏族

一戸/三戸/根城南部/波木井/七戸/四戸/九戸/八戸[遠野]/東/北/南/石亀/毛馬内/中野/千徳/津軽石