河内源氏

系譜

源経基[-961]

清和天皇の第六皇子・貞純親王[桃園親王]と源能有の娘・源柄子との間に生まれた.六孫王を称したという.

承平8[938]年,武蔵介・源経基と権守・興世王は足立郡司・武蔵竹芝と対立.そこで,武蔵竹芝が頼ったのが平将門.これが,承平天慶の乱と呼ばれる平将門の叛乱の序章となっていく.天慶2[940]年に,追捕令が出ていた藤原玄明を匿った平将門は常陸国府を襲撃.ここに至って,源経基は征東将軍・藤原忠文の下で副将軍として派遣されることとなる.しかし,征東軍の到着を待つことなく,平将門は藤原秀郷・平貞盛によって討ち取られる.とはいえ,源経基は藤原秀郷・平貞盛とともに恩賞を受けた.

この源経基の子孫は摂津・大和・河内を勢力圏とする武門源氏へ,平貞盛の子孫が伊勢平氏[桓武平氏]へ,藤原秀郷の子孫が佐藤氏・奥州藤原氏・小山氏へとなっていく.

源満仲[912-997]

源経基と橘繁古もしくは藤原敏有の娘との間に生まれた.

左大臣源高明と藤原秀郷の子の前相模介藤原千晴との接近に警戒した源満仲は右大臣・藤原師尹に与し,源高明と藤原千晴に謀反の計画ありとして告発[安和の変;969].これによって,源満仲は藤原北家の信頼を獲得し武士の第一人者と言われるようになる.

源頼信[968-1048]

河内源氏の初代.源満仲と藤原元方もしくは藤原致忠の娘との間に生まれた.

万寿4[1027]年に藤原道長が世を去ると,下総権介・平忠常が対立する安房守・平惟忠を殺害し叛乱に及ぶ[平忠常の乱].これに対して,一条天皇,関白・藤原頼通,右大臣・藤原実資らは平直方・中原成通を追討使とする.しかし,平忠常の勢いを抑えることは出来ず,長元3[1030]年に平直方を更迭し,平忠常が臣従していた源頼信を追討使とする.甲斐守となって下向した源頼信のもとに平忠常は降伏し,叛乱はあっけなく終焉を迎える.

平忠常は京へと連行される途上で病死すると,その子である常昌[常将]・常近[常親]は赦免.平常昌の子孫は上総介・千葉氏となっていく.源頼信自身は美濃守に任ぜられた.これにより,河内の他に美濃が河内源氏の重要な拠点となっていった.

源頼義

源義家

源義親

源為義

源義朝

源頼朝

鎌倉幕府初代将軍.