天皇家

歴代

初代:神武天皇

欠史八代.

第2代:綏靖天皇

欠史八代.

第3代:安寧天皇

欠史八代.

第4代:懿徳天皇

欠史八代.

第5代:孝昭天皇

欠史八代.尾張氏,小野氏,和邇氏らの祖.

第6代:孝安天皇

欠史八代.

第7代:孝霊天皇

欠史八代.

第8代:孝元天皇

欠史八代.皇后は穂積臣出身で大綜麻杵[Ohesoki]の娘・伊香鬱色謎命[Ikaga-Utsushikome].穂積臣は物部氏と同じく饒速日命の末裔.子の彦太忍信命[Hikofutsuoshionomakoto]は葛城氏,蘇我氏,平群氏,紀氏,武内氏の祖.

第9代:開化天皇

子の彦坐王[Hikoimasu-no-miko]は息長氏の祖.

第10代:崇神天皇

大和国を統一.山背にあった叔父の武埴安彦命[Takehaniyasuhiko]と畿内の覇権を競い勝利.北陸・東海・丹波・吉備に四道将軍を派遣.

第11代:垂仁天皇

纏向珠城宮を営む.新羅国王子の天日槍[Amenohiboko]が角鹿[敦賀]に来訪.

第12代:景行天皇

吉備氏に連なる播磨稲日大郎姫[Inabi-no-ooiratsume]との間の子・ヤマトタケルを諸国に派遣して勢力圏を拡大.

第13代:成務天皇

諸国に国造・稲置を任命.

第14代:仲哀天皇

ヤマトタケルの子.九州で熊襲と戦争中に逝去.神功皇后が指揮を執り,九州を平定したほか,朝鮮半島に遠征し新羅を降伏させた.

第15代:応神天皇

秦氏の祖である弓月君[Yuduki-no-kimi]が渡来.

第16代:仁徳天皇

第17代:履中天皇

仁徳天皇の死後,難波を勢力圏としていた住吉仲皇子[Suminoenonakatsu]との争いに勝利し即位.

第18代:反正天皇

仁徳天皇の死後の争いにおいて履中天皇方に付いて仲皇子を殺害.和邇氏の一族の大宅臣出身の津野媛を皇后とした.

第19代:允恭天皇

病気がちであったため,即位を渋ったものの,妃である忍坂大中姫[Oshisaka-no-ohnakatsu]の説得で即位.忍坂大中姫の父・稚野毛二岐[Wakanukefutamata]は応神天皇皇子にして近江国坂田郡を本拠地としていた.二岐は継体天皇の高祖父.

第20代:安康天皇

自らが殺した叔父の大草香皇子[Ohkusaka]の未亡人・中蒂姫[Nakashi-hime]を皇后とした.しかし,皇后の連れ子,つまり,大草香皇子の子である眉輪王によって.安康天皇は暗殺されてしまう.安康天皇の弟・大泊瀬稚武皇子は共犯として兄・八釣白彦皇子を殺害.同じく兄の坂合黒彦皇子は恐怖に駆られ,眉輪王とともに葛城円大臣のもとに逃亡.大泊瀬稚武皇子は円大臣邸を軍勢で包囲し,円大臣と眉輪王を葬った.

第21代:雄略天皇

兄の安康天皇の暗殺後の混乱を収拾し即位.

第22代:清寧天皇

父の雄略天皇によって滅ぼされた葛城本宗家の葛城円大臣の娘・韓媛を母とする.皇位継承者には吉備稚媛の子である星川皇子・磐城皇子があった.しかし,大伴室屋の尽力によって,吉備氏の勢力を退けて即位.子が無かった.

第23代:顕宗天皇

履中天皇の孫・市辺押磐皇子[Ichibe-no-oshiha]の子である億計王[Oke]・弘計王[Oke]は雄略天皇による迫害を恐れて播磨国に隠棲していた.清寧天皇の代に名乗り出て,最初に即位したのが弘計王であり顕宗天皇.

第24代:仁賢天皇

皇女の手白香皇女[Tashiraka]は継体天皇の皇后となり,欽明天皇を産むことで血統を伝えた.

第25代:武烈天皇

即位前に,大きな勢力を誇っていた平群真鳥を滅ぼした.治世中に百済王子が渡来し,その子孫は倭君となった.後継者なく逝去.

第26代:継体天皇

応神天皇の五世の子孫.

武烈天皇の死後,大伴金村は仲哀天皇の子孫で丹波にあった倭彦王を即位させようとする.しかし,倭彦王は討伐されると勘違いして逃亡.代わりに,白羽の矢が立ち擁立.

もっとも,すぐに大和に入ることはできず,現在の交野神社付近の樟葉宮に留まらざるを得なかった.さらに,山城の筒城宮・弟国宮を経て,即位後20年の間,大和に入ることが出来なかった.また,既に尾張連出身の妻があったにも関わらず,仁賢天皇の皇女である手白香皇女[Tashiraka]を皇后としている.

その治世に,筑紫磐井が叛乱を起こし物部麁鹿火[-536]を派遣して討伐させた.

第27代:安閑天皇

即位前の継体天皇と尾張目子媛との間に生まれた.仁賢天皇の皇女にして継体天皇皇后・手白香皇女の異母姉妹である春日山田皇女を皇后とした.

第28代:宣化天皇

安閑天皇の弟.安閑天皇と同じく,継体天皇の即位前の子.継体天皇皇后の手白香皇女の同母姉妹の橘仲皇女を皇后とした.

蘇我稲目・阿部大麻呂が台頭.

第29代:欽明天皇

継体天皇と仁賢天皇皇女の手白香皇女の間に生まれる.また,宣化天皇の皇女・石姫皇女を皇后とし,大和の豪族と越前・近江勢力との融合が図られた.

第30代:敏達天皇

欽明天皇と蘇我堅塩媛[蘇我稲目の子]との間の子・額田部皇女を皇后とした.額田部皇女は後に推古天皇となる.

第31代:用明天皇

物部氏に近かった敏達天皇の後に,初めて蘇我氏の血を引く天皇として即位.厩戸皇子[聖徳太子]の父.

第32代:崇峻天皇

蘇我馬子の命令を受けた東漢直駒によって暗殺された.

第33代:推古天皇

敏達天皇の皇后.初の女性天皇.小野妹子を遣隋使として派遣.

第34代:舒明天皇

蘇我蝦夷に尽力により即位.茅渟王の子・宝皇女を皇后とした.宝皇女は舒明天皇の死後,皇極天皇として即位.

第35代:皇極天皇

舒明天皇の皇后.舒明天皇の皇后となる前に用明天皇の孫・高向王と結婚し漢皇子を産んでいる.蘇我蝦夷・入鹿父子は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子の即位を目指した.これに反発する中大兄皇子らは蘇我入鹿を暗殺.蘇我本宗家を討滅した.

第36代:孝徳天皇

皇極天皇の同母弟.中大兄皇子の同母姉妹の間人皇女を皇后とした.中大兄皇子による飛鳥遷都を拒否.一方,皇極上皇は皇后を連れて難波長柄豊碕宮を去る.取り残された孝徳天皇はひっそりと崩御.

第37代:斉明天皇

皇極天皇の重祚.阿部比羅夫が蝦夷に遠征.投降した蝦夷首領・恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に任命.唐が百済に侵攻.これに対して,百済王子の扶余豊璋による百済復興を支援.筑後に出兵中に崩御.斉明天皇崩御後,中大兄皇子は皇太子のまま政務を執行[称政].扶余豊璋に,上毛野君稚子・巨勢神前臣訳語・阿部引田臣比羅夫を付けて渡海させた.しかし,白村江の戦いで日本軍は新羅に敗北.百済は滅亡する.

第38代:天智天皇

中大兄皇子は九州から戻り,新羅の日本侵攻に備えて,内陸の近江大津宮に遷都した上で天智天皇として即位.崩御直前,中臣鎌足に大職冠と藤原の姓を与えた.

第39代:弘文天皇

天智天皇の子・大友皇子.蘇我赤兄・中臣金連を左右大臣に据えて皇位を承継.これに対して,吉野に逼塞していた天智天皇の弟・大海人皇子は脱出し鈴鹿・不破の両関を押さえて壬申の乱が勃発.弘文天皇は長等山で自害.

第40代:天武天皇

壬申の乱で勝利した大海人皇子が即位.

第41代:持統天皇

天武天皇の皇后.天武天皇の崩御後,姉・大田皇女の子であり太政大臣であった大津皇子を謀反の罪で自決させる.皇太子の草壁皇子が死去するに至って,持統天皇として即位.太政大臣に高市皇子を据え,藤原京に遷都.

第42代:文武天皇

草壁皇子の子.母である阿閉皇女[後の元明天皇],文武天皇の立太子に功績のあった藤原不比等,知太政官事の忍壁皇子とともに律令国家としての諸制度を整備.病の床に臥した際に,子供である首皇子[後の聖武天皇]が幼少であったため,母である阿閉皇女に譲位を申し出た.

第43代:元明天皇

平城京への遷都を行う.皇后を経ないで即位した初めての女帝.

第44代:元正天皇

元明天皇が高齢を理由に譲位.首皇子[後の聖武天皇]は即位に問題のない年齢だった.しかし,その母・藤原宮子が皇族出身ではないため,元明天皇崩御後に首皇子を支えられないと判断.元明天皇は娘・氷高皇女を元正天皇を中継ぎとして即位させた.藤原不比等の死後,長屋王が政権を支えた.在位9年で甥の首皇子に譲位.

第45代:聖武天皇

文武天皇と藤原不比等の娘の宮子の間に産まれる.元正天皇政権を支えた左大臣・長屋王は失脚し粛清.藤原不比等の子の武智麻呂[南家]・房前[北家]・宇合[式家]・麻呂[京家]が政権を掌握するも相次いで病没.代わって,橘諸兄が政権を握った.これに反発した藤原広嗣が大宰府で叛乱するも鎮圧される.娘の阿部内親王に譲位.その前年,元正上皇が崩御.天武朝に陰り.

第46代:孝謙天皇

聖武上皇,光明皇太后,そして,光明皇太后の兄の橘諸兄が政権を支える.聖武上皇は大仏開眼後に崩御.遺言により,天武天皇の孫・道祖王が皇太子となる.しかし,橘諸兄の失脚後に政権を掌握した藤原仲麻呂によって道祖王は廃太子され,同じく天武天皇の孫の大炊王が皇太子となる.

第47代:淳仁天皇[淡路廃帝]

光明皇太后の崩御により藤原仲麻呂の立場が危うくなる中,孝謙上皇は弓削道鏡と結んで淳仁天皇の権限を制限.これに対して,藤原仲麻呂[恵美押勝]は道祖王の兄・塩焼王を擁立して近江国に逃亡.淳仁天皇は廃され淡路に配流となり自害,藤原仲麻呂[恵美押勝]も攻められて滅亡.

第48代:称徳天皇

孝謙天皇の重祚.弓削道鏡を皇位に就けようとするも和気清麻呂らに阻まれる.道鏡は法王,道鏡の弟・浄人は大納言に登用.左大臣は藤原永手[北家],右大臣は吉備真備という体制で政権を担った.道鏡と浄人は称徳天皇の崩御によって失脚.

第49代:光仁天皇

称徳天皇崩御に際して,吉備真備は天武天皇皇子の長親王の子・智努王[文屋浄三],文屋大市を推挙.しかし,藤原永手が称徳天皇の遺言として,天智天皇皇子の施基親王と紀諸人の娘・橡姫との間の子の白壁王を即位させた.光仁天皇は62歳での即位.北家の藤原永手は治世中に死去,藤原良継・百川・種継の式家が政権を担った.妃の井上内親王と皇太子の他戸親王を廃し,山部親王[桓武天皇]を皇太子とした.

第50代:桓武天皇

光仁天皇の皇子.母は百済武寧王を祖とする和乙継の娘・高野新笠.式家の藤原種継が政権を支えるも,長岡京建設時に暗殺される.この暗殺の罪を問われて,桓武天皇の弟で皇太子の早良親王は廃され配流地に向かう途中で憤死.延暦13[794]年,平安京に遷都.母の高野新笠の母親・土師真妹が土師氏であったことから土師氏を重用.また,坂野上田村麻呂を登用した.

第51代:平城天皇

健康の問題で子の高岳親王を皇太子とすることを条件に弟の神野親王[嵯峨天皇]に譲位.しかし,藤原縄主の妻の薬子を寵愛し,薬子の兄の藤原仲成を重用.重祚を狙う[薬子の乱,平城太政天皇の変].これに対して,嵯峨天皇は藤原仲成を殺害し,薬子を自害させ,平城上皇を出家に追い込んで乱を鎮圧.

第52代:嵯峨天皇

皇子達に源姓を与えて臣籍降下させた[嵯峨源氏].子孫として,渡辺氏・松浦氏[肥前]・蒲池氏[筑後].皇后は橘諸兄の曾孫の橘嘉智子[檀林皇后].

第53代:淳和天皇

嵯峨天皇の異母弟.嵯峨天皇の懇願により皇太子となった後に即位.嵯峨天皇の皇子である仁明天皇に譲位.

第54代:仁明天皇

皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王が立てられた.しかし,淳和上皇と嵯峨上皇が崩御すると,伴健岑と橘逸勢が政治的後ろ盾を失った皇太子を東国へと移すことを画策[承和の変].これを謀反と断じた北家の藤原良房と檀林皇后によって,伴健岑・橘逸勢らは逮捕.恒貞親王は皇太子を廃され,仁明天皇と藤原順子との間に生まれた道康親王[文徳天皇]が皇太子とされた.

第55代:文徳天皇

紀静子との間に産まれた惟喬親王を寵愛.しかし,藤原良房の娘の明子との間に産まれた惟仁親王[清和天皇]を皇太子とせざるを得なかった.藤原良房を人臣初の太政大臣とした.左大臣は源信.

第56代:清和天皇

文徳天皇と,藤原良房の娘の明子との間に産まれる.明子は藤原良房と嵯峨天皇の娘の潔姫との間の子.さらに,藤原良房は兄の長良の娘の高子を清和天皇に入内させた.清和天皇と高子との間に産まれたのが貞明親王[陽成天皇].清和天皇には多くの子があったが,その中の貞純親王の子の源経基は清和源氏の祖.

第57代:陽成天皇

乳母の紀全子の子である源益[Susumu]を内裏で殴殺.藤原基経によって退位させられた.

第58代:光孝天皇

仁明天皇と藤原総継の娘の沢子との子である時康親王が即位.陽成天皇の廃位後,恒貞親王や源融などが皇位継承候補に上がったが,母同士が姉妹であった関係もあって時康親王が光孝天皇として即位.

第59代:宇多天皇

光孝天皇の子であったが,光孝天皇が病を得るまで,臣籍降下して源定省[Sadami]と称していた.急遽,皇族に復帰し立太子.藤原基経の妹の藤原淑子の猶子だったことも背景にあると考えられる.藤原基経との間で「阿衡事件」を引き起こす.その治世は「寛平の治」と呼ばれる.内大臣の藤原高藤[小一条内大臣・勧修寺内大臣]の娘・胤子との間に産まれた敦仁親王[Atsugimi]は醍醐天皇となり,その弟の敦実親王[Atsumi]は佐々木・庭田・綾小路・五辻・大原・慈光寺などの宇多源氏の祖となった.

第60代:醍醐天皇

宇多天皇が臣籍降下していた時の子であり,当初は源維城と名乗っていた.宇多上皇の勧めによって菅原道真を重用し右大臣とした.左大臣は藤原時平.親政を行い,その治世は「延喜の治」と呼ばれた.

第61代:朱雀天皇

藤原時平の妹の穏子と醍醐天皇との間に産まれた保明親王とその子・慶頼王は共に早世.菅原道真の祟りが恐れられる中,穏子が産んだのが寛明親王.その寛明親王が朱雀天皇として即位.叔父の藤原忠平が摂政関白として執政を補佐.その間,関東では平将門の乱,西国では藤原純友の乱が勃発[承平・天慶の乱].平将門の乱は,平忠盛・藤原秀郷によって鎮圧.藤原純友の乱は,小野好古・大蔵春実・橘公頼・橘遠保によって平定.同母弟の成明親王[村上天皇]に譲位.

第62代:村上天皇

藤原忠平の死後,摂関を置かず親政を行い,その治世は「天暦の治」と呼ばれる.第七皇子の具平親王[Tomohira]の子の源師房は村上源氏の祖.源師房は藤原道長の娘・尊子を正室とし,太政大臣となったことで名門公家源氏の地位を確立.

第63代:冷泉天皇

村上天皇と藤原師輔の娘・安子との間に産まれる.藤原実頼が関白として補佐.素行が宜しからず,為平親王と守平親王[円融天皇]が後継者として浮上.しかし,源満仲と藤原善時が橘繁延・源連に謀反の計画ありと告訴.逮捕者の中には,為平親王の義父の左大臣・源高明[醍醐天皇皇子]の従者であった藤原千晴[藤原秀郷の子]もいた.このため,源高明は大宰権帥へと左遷.退位後は,皇位は弟の円融天皇の系統と交互に継いだ.

第64代:円融天皇

冷泉天皇の弟.初めは藤原実頼が摂政.藤原実頼死後は実頼の弟・師輔の子の伊尹が摂政となる.続いて,伊尹の弟の兼通が摂政となる.これは円融天皇の母の安子が藤原師輔の娘であることによる.順当に行けば,兼通の後は弟の兼家が摂政となるべきところ,兼通は兼家を嫌っており,摂政として実頼の子の頼忠を指名.藤原忠頼が摂政となった.しかし,円融天皇が冷泉天皇と藤原伊尹の娘・懐子の子の師貞親王[花山天皇]に譲位すると,兼家の娘・詮子が産んだ懐仁親王[一条天皇]が皇太子となっている.

第65代:花山天皇

冷泉天皇と藤原伊尹の娘・懐子の間の皇子.藤原頼忠が関白.しかし,藤原伊尹の子で叔父の義懐が実権を掌握.寵愛する女御の藤原忯子が亡くなると,藤原兼家の子の道兼に騙されて出家.花山天皇の皇孫の延信王[Nobuzane]は天皇家の祭祀を司る白川伯王家の祖.

第66代:一条天皇

花山天皇を出家に追い込み退位させた藤原兼家は娘の東三条院詮子と円融天皇との間の懐仁親王を一条天皇として即位させた.藤原兼家は摂政に.藤原兼家の死後は子の道隆が関白となる.藤原道隆の死後は兼家の三男・道兼が関白となるも7日で死去.その後,藤原道隆の子の伊周と,道隆の弟の道長が後継を争う.一条天皇の生母の東三条院詮子は弟の道長の助力によって内覧および藤原氏長者の地位を得る.その後,藤原伊周[中関白家]は恋愛トラブルから従者が花山法皇の袖を射るという事件を起こし大宰府へと追放.藤原兼家の娘の超子と冷泉天皇と間の皇子である居貞親王[三条天皇]に譲位して直ぐに崩御.

第67代:三条天皇

冷泉天皇と藤原兼家の娘の超子の皇子.藤原道長の甥.藤原道長は娘の姸子[Kenshi]を入内させるも内親王しか生まれなかった.藤原道長と上手くいかず,目を病み失明して後に,藤原師尹の孫・済時の娘の藤原娍子との間の皇子である敦明親王を皇太子とすることを条件として,一条天皇の皇子である敦成親王[Atsuhira;後一条天皇]に譲位.しかし,後一条天皇よりも14歳年上であり,政治的後ろ盾もない敦明親王は皇太子を辞退し准太上天皇・小一条院として余生を過ごす道を選択.藤原道長はこれに応えて娘の寛子を小一条院に嫁した.源頼義は小一条院の判官代.

第68代:後一条天皇

天皇の即位とともに,藤原道長が摂政となる.その後直ぐに,藤原道長は子の頼通に摂政を譲る.摂津源氏の祖である源頼光と河内源氏の祖である源頼信の兄弟は藤原道長の側近として活躍.源頼信の子の頼義は藤原道長に配慮して皇太子を辞退した小一条院の判官代となっている.関東で平忠常の乱が勃発.平直方が平定に失敗.代わって,源頼信が鎮圧.平直方は源頼信の子の頼義を婿として鎌倉を譲った.

第69代:後朱雀天皇

兄の後一条天皇が皇子無く崩御したため皇位を継承.藤原頼通が関白.後朱雀天皇と藤原道長の娘の嬉子の間には親仁親王[後冷泉天皇]が産まれたが,嬉子はその後直ぐに死去.皇后には尊仁親王[後三条天皇]を産んだ禎子内親王[三条天皇皇女]が就いた.尊仁親王を皇太子とすることを遺言.

第70代:後冷泉天皇

藤原頼通を太政大臣とする.また,治世中,陸奥にて安倍頼良の勢力が拡大し国司・藤原登任が討伐に失敗.源頼義が派遣され,出羽の清原光頼の助勢を得て安倍一族を討滅[前九年の役].

第71代:後三条天皇

藤原摂関家を外祖父に持たなかったために皇太子時代にはいつ廃されてもおかしくないと言われた尊仁親王.しかし,後冷泉天皇が皇子無くして崩御したため後三条天皇として即位.藤原道長の遺言により,道長の子の頼通は弟の教通に関白を譲る.しかし,藤原頼通は弟・教通の関白職は頼通の子の師実が関白となるまでの繋ぎと捉えていた.一方で,藤原教通は自分の子の信長に関白職を譲ることを画策.こうした藤原摂関家内部の対立によって,後三条天皇は藤原能長・源師房・大江匡房を重用して執政.閑院流の藤原公成の娘の茂子[Moshi]との間に貞仁親王[白河天皇]をもうけた.

第72代:白河天皇

後三条天皇と藤原公成の娘・茂子の間の皇子.村上源氏の源顕房の娘・賢子を寵愛した.藤原道長の息子・頼通・教通,藤原道長の娘・上東門院[一条天皇中宮彰子]の死去後は,藤原頼通の師実が関白と藤原氏長者を継承.しかし,藤原頼通の子・師実と藤原教通の子・信長の藤原摂関家内部の抗争が続いた.治世中,東北で後三年の役が勃発.源義家が清原氏を滅ぼした.その結果,奥州藤原氏の祖である藤原清衡が台頭.父の後三条上皇により弟の実仁親王が皇太子とされていたものの実仁親王が早世.白河天皇は実子の善仁親王[堀河天皇]を皇太子とし,そのまま譲位.

第73代:堀河天皇

治世は父である白河上皇の院政の下にあった.延暦寺・興福寺の僧兵間の抗争や日吉大社・春日大社の神輿を擁しての強訴が相次ぎ,京の治安は悪化.白河上皇は身辺警護のために北面の武士を置き,平正盛・忠盛が登用された.

第74代:鳥羽天皇

父・堀河天皇の崩御後5歳で即位.藤原師通の子・忠実が摂政となった.しかし,鳥羽天皇の母・苡子の兄の閑院流藤原公実が摂政を望み白河上皇も望みを叶えようとしていた.これを白河院別当の源俊明の反対によって,藤原忠実が摂政となったという経緯がある.このため,藤原摂関家の力は押さえ込まれる形となる.また,白河法皇は藤原公実の遺児である璋子[待賢門院]を藤原忠実の子・忠通に娶そうとするも,白河法皇と璋子[待賢門院]との関係を疑った忠実はこれを断った.これ以降,藤原忠実は白河法皇に疎外され内覧の地位を剥奪される.代わって,藤原忠実の子の忠通が関白となる.結局,璋子[待賢門院]は白河法皇の孫の鳥羽天皇の中宮となった.璋子[待賢門院]は白河法皇の子と噂されることとなる顕仁親王[崇徳天皇]や雅仁親王[後白河天皇]などを産んだ.また,藤原摂関家の走狗として台頭してきた源氏が源義家の死後,藤原摂関家と同様に一族内抗争によって力を失っていった.一方,院政が確立していくに従って,院の走狗として平正盛が急速に台頭.平正盛は叛乱を起こした源義親[義家の次男]を打ち取っている.

第75代:崇徳天皇

白河法皇と璋子[待賢門院]の子とされる.鳥羽上皇は璋子[待賢門院]を中宮としていたこと,崇徳天皇への譲位を迫られたことで苦渋の日々を過ごした.白河法皇の崩御後,代わって,鳥羽上皇による院政が開始.これに伴い,白河法皇によって退けられていた藤原忠実が復権.鳥羽上皇の命によって異母弟の体仁親王[Narihito;近衛天皇]に譲位.

第76代:近衛天皇

鳥羽天皇と美福門院得子との皇子.崇徳天皇の異母弟.白河法皇の崩御によって内覧に復権した藤原忠実は,その子で関白の藤原忠通に子がないため,弟の頼長を養子とさせた.ところが,藤原忠通に基実が産まれる.このことが原因で,摂関家の継承順位を巡って忠通と忠実・頼長父子との間に確執が生じる.藤原摂関家と天皇家の力が拮抗する中,近衛天皇は名ばかりとなる.平忠盛・清盛父子は鳥羽上皇と藤原忠通に与し,源為義は崇徳上皇と藤原頼長に与した.緊迫した政治状況の中,近衛天皇が早世.次の皇位には,崇徳上皇の皇子・重仁親王が候補となるも,美福門院が崇徳上皇の院政を嫌悪.崇徳上皇の弟・雅仁親王[後白河天皇]を繋ぎ役として,その子の守仁親王[二条天皇]へと皇位を継承させることとした.

第77代:後白河天皇

鳥羽天皇と待賢門院璋子との間の皇子.鳥羽上皇は白河法皇と待賢門院璋子との間の皇子の崇徳上皇から後白河天皇を守るため藤原信西を側近として重用.鳥羽上皇の死期が迫ると,信西は崇徳上皇排斥の度合いを強めていく.鳥羽上皇が崩御すると,藤原頼長に謀反の嫌疑ありとして頼長の東三条邸が没収される.こうした信西の挑発により後白河天皇方と崇徳上皇方の間で保元の乱が勃発.崇徳上皇方には藤原忠実・頼長父子と源為義が付いた.一方,後白河天皇方には平清盛と源義朝らが与した.結果は後白河天皇方の勝利.藤原頼長は頸に矢を受け逃亡中に死亡.藤原忠実は幽閉.崇徳上皇は配流.源為義は斬首となった.保元の乱を勝ち抜いた後白河天皇は美福門院得子の要請により後白河天皇の皇子・守仁親王[二条天皇]に譲位.

第78代:二条天皇

後白河上皇と子の二条天皇は疎遠の間柄.それに加えて,後白河上皇による院政を排除し親政を目指すために,二条天皇の周辺には美福門院得子を中心にした側近層が形成された.これに対して,後白河上皇方では強権的な信西が孤立していき,代わって,藤原道長の兄・道隆の曾孫・藤原信頼が台頭.藤原信西と信頼は対立を先鋭化.藤原信頼は親しかった源義朝とともに,平清盛が京を離れいる間隙を突いて信西を死に追い込み政権奪取を図った[平治の乱].ところが,知らせを受けて急遽帰京した平清盛は藤原信頼に与せず,後白河上皇と二条天皇の身柄を確保し藤原信頼を捕らえ乱を鎮圧.藤原信頼は死罪,源義朝は東国へち落ち延びる途中で殺害された.この後,後白河上皇と二条天皇の抗争は激化していくが,二条天皇が後白河天皇による院政を停止し親政を開始したことで勝負は決したかに見えた.そんな中,二条天皇が倒れる.急遽,大蔵大輔・伊岐致遠の娘との間の皇子である順仁親王[Nobuhito]に親王宣下し立太子させた.

第79代:六条天皇

父の二条天皇が病に倒れたために乳幼児であったにもかかわらず急遽即位.二条天皇は譲位後すぐに崩御.藤原忠通の子の近衛基実が摂政となるもすぐに死去.このため,短い治世は後白河法皇と平清盛によって仕切られた.後白河上皇は寵愛する建春門院平滋子との間の皇子・憲仁親王[高倉天皇]を皇太子とし,六条天皇に譲位させた.

第80代:高倉天皇

建春門院平滋子を媒介として,後白河上皇と平清盛との間に蜜月関係が維持された.建春門院平滋子は桓武平氏高棟王流の平時信の娘.妹の時子は平清盛の正室で二位尼と呼ばれた.さらに,平清盛の娘の建礼門院徳子は高倉天皇の皇后となった.ところが,建春門院滋子が世を去ると,後白河上皇と平清盛との関係は亀裂が目立ち始める.後白河上皇は平清盛に対抗すべく,平重盛の遺領の没収などをする.近衛基実の死後,その地位を引き継いだ松殿基房が摂政となっていた.近衛基実の遺領は正室で平清盛の娘・平盛子が子の基通が成人するまで管理することとなる.しかし,後白河上皇と松殿基房は平盛子の死後,近衛基実の遺領を後白河上皇の管理下に置いた.背景には摂関家内部において摂関領を藤原氏ではなく平氏が相続することへの激しい反発があった.これを平清盛は松殿基房による摂関家の簒奪の兆しと見て,福原から軍勢を率いて上京,松殿基房の関白職を剥奪し大宰権帥に左遷.近衛基通が関白・内大臣及び藤原氏長者とされた.これを治承三年の政変という.平清盛は言仁親王[安徳天皇]を即位させ,高倉上皇による院政を開始させ,後白河上皇を政治の舞台から排斥.

第81代:安徳天皇

治承三年の政変は摂関家内部や官僚層に衝撃を与え,それはそのまま平家に対する反発へと化していく.また,全国の受領層も総入れ替えの様相を呈し,平家の知行国が17ヶ国から32ヶ国へと急増.これに対して,全国各地の武士団の不満も鬱積.この状況を背景として,後白河上皇の三男・以仁王と武家源氏で平家政権に留まっていた源頼政が平家追討の令旨を以って挙兵.以仁王・源頼政は敗死するも,令旨は全国に伝えられ,伊豆の源頼朝,木曽の源義仲らの挙兵を惹起していく.周囲が反平家となる中,平清盛は福原への遷都を強行.高倉上皇が崩御し,平清盛も世を去る.後白河法皇は福原遷都時に比叡山へと逃亡した.福原が都であったのは半年ほどであり京へと還都する.その時は,既に平清盛を失った平家は都に迫る東国武士団を迎え撃つ立場に立たされていた.そして,木曽義仲の入洛を前に平家一門は都落ちしていく.

第82代:後鳥羽天皇

高倉天皇と坊門信隆の娘・七条院殖子との間に生まれた尊成親王が後白河法皇の後押しで後鳥羽天皇として即位.平家が安徳天皇を伴って都落ちした後,木曽義仲が入洛.木曽義仲は以仁王の子で自らの手中にあった北陸宮を天皇として即位させようとしたと伝わる.これに対して,後白河法皇は三種の神器を伴わない異例の法皇の詔による践祚によって後鳥羽天皇を即位させた.平家とともにあった安徳天皇と京都にある後鳥羽天皇の2人の天皇が並び立つこととなった.木曽義仲は征夷大将軍に任ぜられるも,京の治安維持に失敗し後白河法皇の信頼を失う.一方,後白河法皇は源頼朝に期待.木曽義仲は後白河法皇の法住寺殿を襲撃,関白の近衛基通を解任.これに対して,源頼朝方の軍勢が京都に迫り,近江粟津ケ原で木曽義仲は討ち死にする.この間,平家軍は福原に復帰し,源頼朝方の源氏軍と干戈を交える.源平両軍は屋島と壇ノ浦で激突.壇ノ浦にて平家一門と安徳天皇は海に沈んだ.その後,平家追討で戦功のあった源義経を後白河法皇が取り込もうとしたため,源義経は兄の源頼朝に追討される.源義経と義経を匿った奥州藤原氏を滅亡させた源頼朝は九条兼実の助力により後白河法皇と征夷大将軍職を得るための交渉を開始.しかし,後白河法皇の存命中に源頼朝が征夷大将軍となることはなかった.後白河法皇の死後,後鳥羽天皇は院政を行うことを切望し,源頼朝もこれを認め,為仁親王[土御門天皇]に譲位した.

第83代:土御門天皇

後鳥羽天皇と法勝寺執行能円の娘・承明門院在子との間の皇子.承明門院在子は法勝寺執行能円と藤原範子との間に産まれたが,法勝寺執行能円が備中国に配流となった後,藤原範子は源通親と再婚していた.この経緯から,源通親が外祖父としての立場と後鳥羽院別当という立場で補佐.源通親の死後は後鳥羽上皇の院政のままとなる.摂政関白の地位は近衛基通・九条良経・近衛家実が就いたが摂関家に昔日の面影は無かった.治世中,源頼朝が死去し,源頼家が追放され暗殺され,源実朝が将軍となっている.弟の守成親王[順徳天皇]に譲位.

第84代:順徳天皇

後鳥羽天皇と藤原範季の娘・修明門院重子との間の皇子.後鳥羽天皇の愛情を一身に受けて育てられた.後鳥羽上皇は順徳天皇の即位前から鎌倉幕府打倒の決心を固めていたという.鎌倉幕府第3代将軍・源実朝には嗣子がなく,時期将軍は京から迎え入れるという世論が醸成されつつあった.その中,源実朝が源頼家の子・公暁によって暗殺.後鳥羽上皇は機が熟したと判断.順徳天皇もこれに従い,懐成親王[仲恭天皇]に譲位.北条義時追討の宣旨・院宣を全国に発した[承久の乱].信濃源氏で7ケ国の守護であった大内惟信などが後鳥羽上皇方に与した.

第85代:仲恭天皇[九条廃帝]

順徳天皇が承久の乱に先立って懐成親王に譲位.懐仁親王は仲恭天皇として即位.承久の乱は鳥羽上皇方の敗北に終わる.鎌倉幕府は幕府方であった西園寺公経を内大臣とし,九条道家を摂政から解任.後鳥羽上皇は隠岐に,順徳上皇は佐渡に配流とした.土御門上皇は承久の乱に関与しなかったが,自ら進んで土佐に下向.仲恭天皇は外祖父である九条道家に引き取られた.そもそも,仲恭天皇は明治時代になって初めて,弘文天皇・淳仁天皇とともに天皇として認められた天皇である.

第86代:後堀河天皇

後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が京を去ったため,後鳥羽上皇の兄で平家に壇ノ浦まで同行したものの助けられた行助入道親王[守貞親王]を後高倉院として担ぎ出し,その子の茂仁親王[Yutahito]を皇位に付けた.治世中,鎌倉幕府を支えてきた北条義時・北条政子・大江広元が世を去る.九条道家の娘・藻璧門院竴子との間の皇子・秀仁親王[Mitsuhito]に譲位.譲位の2年ごに崩御.

第87代:四条天皇

九条道家・西園寺公経の意向を北条泰時が認め2歳で即位.治世中,鎌倉幕府将軍・九条頼経の正室の竹御所[源頼家娘]が世を去る.四条天皇は廊下に蝋を塗って人が転ぶのを面白がっていたところ,自分も転んでしまい,それが元で崩御.

第88代:後嵯峨天皇

九条道家・西園寺公経が順徳天皇の子の忠成王を皇位に推し,村上源氏一門が土御門天皇の子の邦仁王を皇位に推す中,北条泰時は邦仁王を選び後嵯峨天皇とした.佐渡に配流されていた順徳上皇が存命しており,院政の可能性が残されることを懸念しての判断といえよう.治世中,北条泰時が世を去り経時が執権となった.また,鎌倉幕府将軍・九条頼経の周囲に反得宗家勢力が集まってきていたため,鎌倉幕府は九条頼経を追放し,子の頼嗣を将軍職に据えた.後嵯峨天皇は太政大臣・西園寺実氏の娘・大宮院姞子との間に産まれた久仁親王[後深草天皇]に譲位し院政を敷いた.

第89代:後深草天皇

後深草天皇の即位後間もなく,鎌倉幕府執権・北条経時は病気を理由に弟・時頼に執権職を譲る.鎌倉では前将軍・九条頼経と北条一族の名越光時が北条時頼打倒を企てるも失敗し九条頼経は京へと送還.このため,九条頼経の父・九条道家は失脚したが,京に戻った頼経は尚も策謀を企てたため,北条時頼は鎌倉幕府将軍・九条頼嗣をも解任し追放.後深草天皇の兄の宗尊親王を鎌倉幕府将軍として迎え入れた.後深草天皇は素行が宜しくなく,後嵯峨上皇の命で弟の恒仁親王[亀山天皇]に譲位.亀山天皇の系統が大覚寺統となり,後深草天皇の系統が持明院統となっていく.

第90代:亀山天皇

後嵯峨天皇の三男.後深草天皇の弟.後嵯峨天皇からの期待を一身に受けて育てられ,兄・後深草天皇の皇太子を経て即位.弘長元[1261]年,二条良実が,再度,関白となり,文永元[1264]年には鎌倉幕府では北条政村[政村流北条氏祖]が執権となっている.文永2[1265]年,関白職は,再度,一条実経に.その翌年の文永3[1266]年には鎌倉幕府将軍・宗尊親王が京に送り返され,代わりに,宗尊親王の子の惟康親王が鎌倉幕府将軍に任ぜられる.文永5[1268]年,北条時宗が鎌倉幕府執権に就任.時あたかも,元寇襲来を目前に控えていた.文永9[1272]年,次の治天の君を明確にせず,後嵯峨上皇が崩御.後深草上皇・亀山天皇の母である大宮院は後嵯峨上皇の意思は亀山天皇にあるとした.同年,二月騒動によって名越時章・北条時輔が討伐された.亀山天皇は洞院実雄の娘・京極院佶子との間の皇子・世仁親王[後宇多天皇]に譲位.京極院佶子が亀山天皇の皇后であったことが,後深草上皇の皇子ではなく,亀山天皇の皇子に皇統を繋いでいく決定打となった.

第91代:後宇多天皇

即位した文永11[1274]年に元朝が対馬・壱岐で虐殺行為を働いたのち博多湾に侵攻[文永の役].続いて,弘安4[1281]年にも元朝軍が日本への侵略を敢行[弘安の役].結局,元朝軍は日本から撤退.弘安7[1284]年,国難を乗り切った北条時宗が世を去る.北条時宗は,生前,持明院統と大覚寺統の両統迭立を図るために後深草上皇の皇子・熙仁親王を亀山上皇の猶子とした上で後宇多天皇の皇太子とさせた.鎌倉幕府執権職は北条貞時に.1285年,鎌倉幕府御家人の有力者・安達泰盛が北条得宗家の御内人筆頭の平頼綱によって滅亡[霜月騒動].同年,大宮院の母・四条貞子[北山准后]の90歳の祝いが西園寺第[現金閣寺]にて開催.四条貞子は平清盛の曾孫.祖父は後白河法皇側近であり,平清盛の娘を妻とした四条隆房.

第92代:伏見天皇

後深草天皇の皇子.つまり,持明院統の天皇.関東申次・西園寺実兼の娘・永福門院鏱子が伏見天皇の中宮になっていたことから,西園寺実兼は持明院統の継続を図ろうとする.宇多源氏の五辻経氏の娘・経子の子の胤仁親王[後伏見天皇]が中宮の皇子として皇太子に立てられた.また,洞院季子の子の富仁親王は後に花園天皇として即位することとなる.正応3[1290]年,甲斐源氏の朝原為頼が御所である二条富小路殿に乱入.伏見天皇は春日殿に女装して難を逃れた[伏見天皇暗殺未遂事件].朝原為頼は自害.自害に用いた鯰尾という刀が大覚寺統派の三条実盛所有であったことから,関東申次・西園寺公衡は亀山法皇の関与を指摘.しかし,持明院統の後深草法皇が主張を取り上げなかった為,事件はそれ以上拡大しなかった.正応6[1293]年,権勢を欲しいままにしてきた北条氏得宗家内管領・平頼綱が大地震の混乱の中で鎌倉幕府執権・北条貞時によって討伐される.

第93代:後伏見天皇

持明院統の天皇.持明院統と大覚寺統による鎌倉幕府への働き掛けが激化.鎌倉幕府は大覚寺統の後宇多天皇の皇子・邦治親王[後二条天皇]を皇太子を希望した.

第94代:後二条天皇

大覚寺統の天皇.正安3[1301]年,北条時宗の甥にして北条貞時の娘婿である北条師時が鎌倉幕府執権に就任.嘉元元[1303]年,亀山法皇に恒明親王誕生.亀山法皇は恒明親王に常磐井殿の邸宅を譲り,後二条天皇にも恒明親王を大覚寺統の後継とすることを望んだ.しかし,大覚寺統の分裂を産むとして後宇多上皇が反対.亀山法皇崩御後,恒明親王が皇位に就くことはなく,その子孫は常盤井宮家として続くこととなる.嘉元2[1304]年,持明院統の祖・後深草法皇が崩御.嘉元3[1305]年,大覚寺統の祖・亀山法皇が崩御.同年,北条得宗家執事の北条宗方らが連署・北条時村を葛西ヶ谷の時村亭にて殺害[嘉元の乱].これに対し,一番引付頭人大仏宗宣らが二階堂大路薬師堂谷口の北条宗邸を追討し殺害.延慶元[1308]年,鎌倉幕府第8代将軍久明親王[後深草天皇皇子]と第7代将軍惟康親王[第6代宗尊親王皇子]の娘の間に産まれた守邦親王が第9代鎌倉幕府将軍に就任.

第95代:花園天皇

持明院統の天皇.即位に際しては,持明院統と大覚寺統の両統迭立を図るため,次は大覚寺統の尊治親王[後醍醐天皇;後宇多天皇皇子]が即位し,その次は,同じく大覚寺統の邦良親王[木寺宮家祖;後二条天皇皇子],その次は持明院統の持明院統の量仁親王[光厳天皇;後伏見天皇皇子]と決められていた.応長元[1311]年,北条[大仏]宗宣が鎌倉幕府執権に就任.この年,北条得宗家の北条貞時が世を去る.執権職は,北条煕時[政村流],基時[極楽寺流]と続き,正和5[1316]年に北条得宗家の北条高時が執権となる.文保元[1317]年,持明院統の伏見法皇が崩御.

第96代:後醍醐天皇

大覚寺統の天皇.後宇多天皇の第二皇子であったが,兄の後二条天皇よりも父親の寵愛を受け,大覚寺統のプリンスと目されていた人物.即位後3年は後宇多法皇が院政を布いた.元亨元[1321]年,後宇多天皇が院政を停止し隠居.これによって,後醍醐天皇は親政を開始.後の三房と称される,北畠親房・万里小路宣房・吉田定房を側近として執政に励んだ.ちなみに,前の三房というのは白河天皇に仕えた藤原伊房・大江匡房・藤原為房のこと.ところが,持明院統と大覚寺統の両統迭立の取り決めによって,大覚寺統の邦良親王,持明院統の量仁親王の両サイドから鎌倉幕府に対して早期の譲位実現の働きかけがなされていた.こうした中,後醍醐天皇は邦良親王・持明院統・鎌倉幕府の三者に対して強い反発心を抱く.そこで,元亨4[1324]年,側近の日野資朝・日野俊基に命じて諸国の武士に倒幕を呼びかけた.この動きに呼応し,土岐頼貞・頼兼,多治見国長,足助貞親らが上洛.しかし,六波羅探題が動きを察知し土岐らと戦闘に及び討滅した[正中の変].後醍醐天皇は一切関与していないとして追求を免れている.ところが,元弘元[1331]年,吉田定房の密告によって後醍醐天皇による倒幕計画が発覚.進退窮まった後醍醐天皇は笠置山に籠城[元弘の乱].鎌倉幕府は直ちに後醍醐天皇を廃位し,皇太子の量仁親王を即位させ光厳天皇とした.笠置山に籠城した後醍醐天皇は鎌倉幕府の大軍の前に敗れ隠岐島へと配流された.

北朝初代:光厳天皇

後醍醐天皇が鎌倉幕府によって廃位されたため皇位に就く.しかし,隠岐島に配流されていた後醍醐天皇は名和長年の支援によって隠岐を脱出し伯耆船上山で挙兵.これに,播磨の赤松則村,河内の楠木正成らが呼応.さらに,鎌倉幕府から鎮圧を命じられた足利尊氏が叛旗を翻して六波羅探題を襲撃.また,新田義貞や下野の足利勢も加わって鎌倉に進撃.鎌倉幕府を倒した.鎌倉幕府が滅亡したことで,後醍醐天皇が皇位に復帰し光厳天皇の即位は否定された.それ以降の光厳天皇は丹波山国荘の常照皇寺に隠棲.

後醍醐天皇は建武の新政を行うが武家の支持を得ることが出来なかった.そうした中,建武2[1335]年,北条時行が起こした中先代の乱を鎮圧するため足利尊氏が鎌倉へ下向.乱の鎮圧後に足利尊氏は鎌倉に留まったことから,後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏追討を命じた.楠木正成や北畠顕家に追われて,足利尊氏は九州にまで落ち延びる.その後,盛り返した足利尊氏は上洛を果たし,後醍醐天皇は和睦に応じて退位し幽閉される.ところが,後醍醐天皇は幽閉先の花山院から脱出し吉野へと走り南朝を開いた.

第97代:後村上天皇

後醍醐天皇は懐良親王を九州へ,尊良親王・恒良親王に新田義貞を付けて北陸へ,宗良親王を東国へ,義良親王を奥州へと派遣し捲土重来を期した.しかし,病に倒れた後醍醐天皇は吉野に留まっていた義良親王に譲位.義良親王が後村上天皇として即位.後村上天皇は父の遺志を受け継いで,京奪還を目指して賀名生や摂津住吉を行宮として北朝と干戈を交えた.

北朝第2代:光明天皇

光厳天皇の弟.光厳天皇による院政が行われた.後醍醐天皇が三種の神器を吉野に持ち去ったため,光厳上皇の院宣によって即位.

北朝第3代:崇光天皇

光厳天皇の第一皇子.貞和4[1348]年,光明天皇から譲位され即位.観応2[1351]年,足利尊氏・直義兄弟が争う観応の擾乱が勃発.足利尊氏が南朝に帰順するに及んで正平一統が成立し廃位.

北朝第4代:後光厳天皇

観応の擾乱が足利尊氏の勝利によって終息.しかし,南朝の指導者である北畠親房は京・鎌倉からの足利勢の駆逐を画策.足利尊氏から征夷大将軍職を剥奪し宗良親王を征夷大将軍とした.この方針の下,楠正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏が入洛し,京を守護していた足利義詮を京から逐った.そして,光厳上皇・光明上皇・崇光上皇を南朝の本拠地である賀名生に連れ去った.南朝の後村上天皇は賀名生から男山八幡まで進軍するが,足利方の佐々木道誉・細川顕氏・土岐頼康・山名時氏・斯波高経らが男山を包囲し,後村上天皇を賀名生に押し返した.これによって,足利尊氏・義詮父子は正平一統を破棄.後伏見上皇妃・広義門院の命によって,光厳天皇皇子の弥仁親王[Iyahito]を後光厳天皇として即位させた.

第98代:長慶天皇

大正時代になって認められた天皇.後村上天皇の皇子には主戦派の寛成親王[Yutanari]と弟で和平派の熙成親王[後亀山天皇]とがあった.寛成親王が長慶天皇として即位したことで,和平派の楠木正儀は孤立し,細川頼之の調略によって北朝に降った.

北朝第5代:後円融天皇

後光厳天皇の兄の崇光上皇が自分の皇子・栄仁親王[Yoshihito]への譲位を主張.これに対して,室町幕府は後光厳天皇の意思を尊重し緒仁親王を後円融天皇として即位させた.足利義満が第3代将軍となっていた室町幕府では,細川頼之に対して,斯波・土岐・山名・佐々木が罷免を要求し,斯波義将が管領となった.

第99代:後亀山天皇

南朝では楠木正儀の復帰もあって和平派が台頭.その中心にあったのが東宮・熙成親王.こうした和平派に押される形で長慶天皇は熙成親王に譲位し後亀山天皇として即位することとなった.宗良親王・懐良親王も世を去り弱体化する南朝に対して,室町幕府第3代将軍・足利義満は吉田兼煕を通じて,後亀山天皇に対して講和を呼びかけた[明徳の和約].これに応じた後亀山天皇は京・大覚寺に入り,三種の神器は北朝の後小松天皇の土御門内裏へと移された.これをもって,後亀山天皇の皇太子であった聖護院宮惟成親王は廃太子となった.後亀山天皇は大覚寺殿と呼ばれ上皇の尊号が送られた.

第100代[北朝第6代]:後小松天皇

第3代室町幕府将軍・足利義満の全盛期の天皇.南北朝合一時の天皇でもある.

足利義満は大きな力を有していた守護大名の土岐・山名氏を討伐[明徳の乱].さらに,南朝の後亀山天皇に和平を呼びかけ実現させた[明徳の和約].南北朝合一の条件は,南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇への譲位,持明院統[北朝]と大覚寺統[南朝]の両統迭立,諸国国衙領の大覚寺統管領と長講堂領の持明院統管領.足利義満は両統迭立などを反古にする気は無かったとされるが,足利義持によって約束は守られなかった.

第101代:称光天皇

後小松天皇と日野資国の娘・光範門院資子との間の皇子[躬仁親王].南北朝合一の条件として,大覚寺統から天皇がでるはずであった.しかし,明徳の和約を南朝の後亀山天皇と交わした第3代室町幕府将軍・足利義満は応永15[1408]年であり,称光天皇が即位した応永19[1412]年には足利義満はこの世を去っていた.鹿苑院太上法皇と諡号された足利義満が弟の義嗣を寵愛した関係から反発した第4代室町幕府将軍・足利義持が反古にしたとも言われる.ともあれ,こうした室町幕府の態度に反発した後亀山法皇は京から吉野へと出奔.称光天皇の即位はその間に執り行われた.この事態に対して,伊勢国司・北畠満雅らが挙兵.南北朝の再来かと思われたが,室町幕府の支配体制は揺るがず,後亀山法皇は結局は小倉山に戻り隠棲.

称光天皇は病弱であったため,弟の小川宮を皇太子としていた.しかし,称光天皇・小川宮共に奇行が多く問題となっていたところ,小川宮は兄帝に先立って早世.そして,称光天皇自身も嗣子なく崩御.後小松上皇は崇光天皇の皇子・伏見宮栄仁親王の孫・彦仁王を即位させ後花園天皇とした.この背景には,次期将軍となることになっていた足利義宣[義教]が伏見御所の彦仁王を保護し後小松上皇に皇位継承を迫ったことがある.伏見宮栄仁親王は後光厳天皇の後継者を巡って後光厳天皇皇子の後円融天皇と争った人物.

第102代:後花園天皇

崇光天皇系の伏見宮出身の天皇.父は伏見宮貞成親王.伏見宮貞成親王は現在の皇室および旧皇族11宮家の共通の祖として知られる.

旧皇族11宮家とは,伏見宮・閑院宮・山階宮・北白川宮・梨本宮・久邇宮・賀陽宮・東伏見宮・竹田宮・朝香宮・東久邇宮.

後花園天皇の治世中,鎌倉公方・足利持氏が関東管領・上杉憲実と争い室町幕府第6代将軍・足利義教によって討伐されている[永享の乱].さらに,足利義教が西洞院二条邸で播磨守護・赤松満祐に暗殺されるという事態が勃発[嘉吉の乱].この事態を受けて,後花園天皇は赤松満祐追討の綸旨を発した.足利義教の後は義教の子・義勝が将軍職を継いだものの8ケ月で早世.その後,足利義政が将軍職に就くまで6年間空位が続く.この間,南朝の後亀山天皇の弟で皇太弟であった護聖院宮惟成親王の孫・金蔵主が土御門内裏に乱入し神璽・宝剣を奪取[禁闕の変].延暦寺に逃れた金蔵主は山徒によって討伐.南朝の皇位継承権者の勧修寺宮教尊は隠岐へと配流された.

足利義政が第8代将軍に就いて安定するかに思えたが,関東では,鎌倉公方・足利成氏が叛旗を翻し享徳の乱が勃発.

京においても,応仁の乱が差し迫っていた.そうした中,後花園天皇は皇子の成仁親王[Fusahito]に譲位する.後土御門天皇である.

第103代:後土御門天皇

後花園天皇と藤原孝長の娘・嘉楽門院信子の間に産まれる.室町幕府第8代将軍・足利義政と日野富子の間には子が無かった.そのため,足利義政は弟の浄土寺門跡・義尋[足利義視]を還俗させて後継者に定めた.室町幕府のこの動きを見届けた後に,後花園天皇は後土御門天皇に譲位した.しかし,室町幕府内では細川勝元と伊勢貞親が政権を固めていたものの,畠山氏と斯波氏で後継者争いが勃発しており不穏な空気が充満していた.これが,日野富子が義尚を産み,山名宗全が義尚の後見人となったことで,応仁の乱の導火線に.山名宗全の支援を受けた畠山義就が細川勝元の支援を受けた畠山政長を管領職から追放しようとして上洛,上御霊神社で応仁の乱の火蓋が切って下された.

後土御門天皇の治世は細川勝元・山名宗全の死,足利義尚の将軍就任などによって応仁の乱が終結した後も続く.その間,足利義尚は将軍の命に従わない近江守護の六角氏討伐のために甲賀に出兵するも勝利することなく鈎の陣で病没.次の将軍は足利義視の子・義材が就くも細川政元によって越中に追放.伊豆の堀越公方の子の義澄が将軍となる.混乱はこれだけではなく,応仁の乱の最中には南朝の残存勢力が小倉宮の血を引く皇子が西軍に迎え入れられている.結局,小倉宮は支持を得られず消息不明となっている.

北条早雲こと伊勢宗瑞が伊豆を制圧したのも後土御門天皇の治世.崩御まで皇位にあった.

第104代:後柏原天皇

後土御門天皇と庭田長賢の娘・朝子との間に産まれる.この時代,朝廷は困窮しており,即位時に即位礼を行うことが出来なかった.また,室町幕府でも,細川政元の死後,その養子である澄之[九条家]・澄元[阿波守護家]・高国[野州家]が争うようになる.細川澄元・高国の争いは,室町幕府将軍家における義澄・義稙の争いとも絡み,両細川の乱として長引いた.

第105代:後奈良天皇

後柏原天皇と勧修寺教秀の娘・豊楽門院藤子との間の知仁親王が後柏原天皇の崩御により即位.即位の儀式は費用不足によって簡略化せざるを得なかった.治世中,室町幕府は第12代将軍・足利義晴と第13代足利義輝.将軍自体が細川家の内紛に巻き込まれ近江に脱出する中で,朝廷は困窮の度合いをさらに強めた.関東では川越夜戦で両上杉家と古河公方足利家が北条氏康に敗れている.西日本では西国の覇者の大内義隆が家臣の陶晴賢によって討たれた.斎藤道三・武田信虎・毛利元就の台頭も治世中.

第106代:正親町天皇

後奈良天皇と万里小路賢房の娘・吉徳門院栄子の間の方仁親王[Michihito]は後奈良天皇の崩御によって正親町天皇として即位.この時,京は細川家の重臣・三好長慶が支配していた.朽木に逃れていた室町幕府第13代将軍・足利義輝が六角義賢の仲介で京に復帰すると,足利義輝と三好長慶によって安定した執政が行われるようになる.しかし,永禄7[1564]年,三好長慶が亡くなると,松永久秀と三好三人衆[三好長逸・三好政康・岩成友通]による内紛状態に.そして,永禄8[1565]年,遂には三好三人衆は将軍による親政を嫌い,将軍・足利義輝を二条御所において攻めて自害に追い込んだ.これに対して,正親町天皇の綸旨と足利義輝の弟・義昭を擁した織田信長が上洛し京を支配下に置き,足利義昭を将軍職に就けた.

正親町天皇は,第14代室町幕府将軍・足利義昭が織田信長によって追放され,その織田信長が本能寺の変に倒れた時代を治世とし,織田信長の家臣だった豊臣秀吉を関白に任じている.正親町天皇は院政の復活を望んでいた.しかし,誠仁親王が急死したために,その嫡男の周仁親王[Katahito]に譲位し後陽成天皇とした.

第107代:後陽成天皇

正親町天皇の子・誠仁親王[Sanehito]の子.治世中,豊臣秀吉は太政大臣となり,豊臣姓を賜姓された.豊臣秀吉は皇族・公家の所領の設定を行い,困窮を極めていた皇族・公家の経済基盤の安定化を図った.その一方で,豊臣秀吉は天皇の権威を前面に出して統治を行った.後陽成天皇は,そうした国家の安定化を豊臣秀吉と共に作り上げたとも言える.後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王は今出川晴季の斡旋によって,豊臣秀吉に実子の鶴松が生まれるまで豊臣秀吉の養子だった.こうした経緯から,豊臣秀吉の死の直後,後陽成天皇は弟の八条宮智仁への譲位を考えている.関白・九条兼孝と徳川家康の反対で実現しなかったが,この事は後陽成天皇と豊臣秀吉の親密な関係を象徴するものと言える.その一方で,徳川家との難しい関係の象徴でもある.近衛前久の娘・中和門院前子との間の政仁親王への譲位の願いも,引き伸ばされ,徳川家康と豊臣秀頼との二条城会談まで譲位出来なかった.譲位した後陽成上皇は徳川家康の死の翌年に崩御.

第108代:後水尾天皇

後水尾天皇の即位の翌日に行われたのが豊臣秀頼と徳川家康の二条城会談.大阪冬の陣,大坂夏の陣も治世中.江戸幕府将軍職は徳川家康,徳川秀忠,徳川家光と引き継がれた.徳川秀忠は娘の和子を入内させて東福門院としている.後水尾天皇は江戸幕府の許可を得る事なく,大徳寺住職の沢庵和尚らに紫衣を与えた.これに対して,徳川家光は紫衣を与えられた僧侶を流罪に処した.さらに,江戸幕府が無位無官の春日局を参内させたことに反発して,後水尾天皇は徳川秀忠の娘・東福門院和子との間の興子内親王に譲位.久方ぶりの女帝である明正天皇である.

第109代:明正天皇

御水尾天皇と徳川秀忠の娘の東福門院和子との間に産まれる.奈良時代の孝謙天皇以来の女帝.明正天皇は江戸幕府第3代将軍・徳川家光の姪である関係から御水尾天皇の時代とは打って変わり,朝廷と幕府の関係は安定したものとなった.徳川家光は30万人を供奉して上洛,後水尾天皇に院領7000石を献上.治世中,徳川家光の弟の駿河大納言・徳川忠長が自害に追い込まれたり[寛永10[1634]],島原の乱が起こっている[寛永14[1637]].

第110代:後光明天皇

後水尾天皇と園基任の娘の壬生院光子との間の素鵞宮紹仁親王が明正天皇の譲位により即位.園家は藤原道長の次男・頼宗を祖とする持明院家の分家.また,同じく後水尾天皇と壬生院光子との間に生まれた守澄法親王は初代輪王寺宮門跡として江戸に下向している.後光明天皇は武芸を好み剛毅な性格で知られ,度々,京都所司代・板倉重宗を悩ましたという.急に体調を崩し崩御.治世中,江戸幕府第3代将軍・徳川家光が世を去り,第4代将軍として徳川家綱が宣下されている.後光明天皇は死の直前,高貴宮識仁親王[Atenomiya Sanehito]を養子とした.

第111代:後西天皇

後水尾天皇と櫛笥隆致の娘・逢春門院隆子.後西天皇の「後西」は,淳和天皇が「西院」と呼ばれたことに由来.後光明天皇の弟に当たる.即位にあたっては,母親の逢春門院隆子が仙台藩主・伊達綱宗の母の貝姫と姉妹出会ったことから江戸幕府側には異論もあったという.しかし,東福門院によって江戸幕府も即位を認めた.櫛笥家は羽林家であり藤原北家四条流.治世中,明暦の大火,内裏炎上に大阪城天守閣焼失と災害が相次いだ.

第112代:霊元天皇

後水尾天皇と園基音の娘・新広義門院国子との間の高貴宮識仁親王[Atenomiya Satohito]が即位.識仁親王は後光明天皇が崩御直前に養子としていた.江戸幕府第4代将軍・徳川家綱が亡くなった際,大老・酒井忠清は鎌倉幕府の先例に倣って後西天皇の第2皇子の有栖川宮幸仁親王を将軍とすることを主張している.結局,徳川綱重の弟の綱吉が将軍職に就いている.江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院は京都堀川の八百屋の娘.さらに,徳川綱吉の正室の浄光院鷹司信子は霊元天皇の中宮である新上西門院鷹司房子の姉.こうした関係から,徳川綱吉は朝廷から典侍・常磐井局を大奥総取締として招聘し,大奥が京風文化に染まっていった.また,常磐井局の縁で,権大納言清閑寺熈定の姉妹・寿光院が綱吉の側室となり,清閑寺熈定の娘・浄岸院竹姫が養女となった.この浄岸院竹姫は薩摩藩主・島津継豊の正室となっている.

第113代:東山天皇

霊元天皇と松木宗条の娘・敬法門院宗子との間に五宮朝仁親王として産まれる.父の霊元天皇の強い推挙によって皇位に就いたが,霊元天皇と対立していた近衛基煕と組んで,霊元天皇の側近であった議奏・中御門資煕を排斥.しかし,権力闘争が本格化する前に天然痘で崩御.

第114代:中御門天皇

東山天皇と櫛笥隆賀の娘・崇賢門院賀子との間の長宮慶仁親王[Masunomiya Yasuhito]が即位.東山天皇は霊元上皇に対抗するため中御門天皇に譲位.さらに,江戸幕府では徳川綱吉が世を去り,徳川家宣が将軍となる.これによって,近衛基煕は娘の天英院煕子が徳川家宣の正室であったことなら太政大臣となる.これで,霊元上皇の力は削がれたかに思われたが,直後に東山上皇は崩御.治世中,霊元上皇と近衛基煕との熾烈な権力闘争が繰り広げられた.

第115代:桜町天皇

中御門天皇と近衛家熙の娘・新中和門院尚子との間の若宮昭仁親王[Wakanomiya Teruhito]が即位.即位に当たっては,江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の支援によって大嘗祭が本格的に復活.

第116代:桃園天皇

桜町天皇と姉小路実武の娘・開明門院定子との間の八穂宮遐仁親王[Yahonomiya Tohito]が即位.治世中,徳大寺家に仕える竹内式部が垂加神道を信奉し幕府に反感を抱く若手の公家衆の熱狂的支持を受けていた.しかし,桃園天皇側近の徳大寺公城[Kinmura]が桃園天皇に竹内式部[竹内敬持]を紹介したことから,関白・一条道香,近衛内前,鷹司輔平,九条尚実らが京都所司代と組んで,桃園天皇の近習の徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野を追放[宝暦事件].この事件を契機として,桃園天皇は朝廷の中で孤立し,失意の中で崩御.

第117代:後桜町天皇

桜町天皇と二条吉忠の娘の青綺門院舎子の間の以茶宮智子内親王[Isanomiya Toshiko]が即位.最後の女帝.桃園天皇には英仁親王[後桃園天皇]がいたが,桃園天皇の崩御時に英仁親王は僅か5歳.桃園天皇の崩御の直前に宝暦事件があり朝廷内が不安定な状況であったために幼少の天皇は避けられた.こうして即位したのが後桜町天皇.甥にあたる英仁親王[後桃園天皇]への中継ぎと考えられていた.江戸幕府では第10代将軍・徳川家治の時代.

第118代:後桃園天皇

桃園天皇と一条兼香の娘の恭礼門院富子との間の若宮英仁親王が後桜町天皇の譲位を受けて即位.皇子なく崩御したため皇統断絶の危機に.江戸幕府では第10代将軍・徳川家治の下で,老中・田沼意次が執政.

第119代:光格天皇

閑院宮典仁親王と岩室常右衞門の娘の磐代との間の祐宮師仁[Sachinomiya Morohito]親王が即位.後桃園天皇は欣子内親王[Yoshiko]だけを残して崩御.欣子内親王と夫婦となることを前提に,伏見宮嘉禰親王と閑院宮祐宮師仁親王が候補に.伏見宮を後桜町上皇・近衛内前が支持し,閑院宮を関白・九条尚実が支持.議論の末,閑院宮祐宮師仁親王が即位することとなった.治世中,田沼意次が失脚し,江戸幕府第10代将軍・徳川家治が世を去り,一橋家から徳川家斉が第11代将軍となった.徳川家斉は松平定信を起用し寛政の改革を進めた.

第120代:仁孝天皇

光格天皇と勧修寺経逸の娘の東京極院婧子の間の寛宮恵仁[Yutanomiya Ayahito]が光格天皇の譲位によって即位.江戸幕府では,第11代将軍・徳川家斉,第12代将軍・徳川家慶の時代.徳川家慶は水野忠邦を起用して天保の改革を行わせた.仁孝天皇は現在の学習院の前身となる教育機関を創設している.

第121代:孝明天皇

仁孝天皇と正親町実光の娘の新待賢門院雅子との間の煕宮統仁親王[Osahito]が仁孝天皇の崩御により即位.

第122代:明治天皇

第123代:大正天皇

第124代:昭和天皇