浅利 Asari

甲斐源氏の一族・浅利義遠[1149-1221]が八代郡浅利郷を本拠とし浅利を称したことを起源とする.

浅利義遠は源清光[1110-1168]の子であり,武田信義・安田義定といった兄弟とともに源頼朝による鎌倉幕府創設に参画.越後平氏の城長茂[1252-1201]らによる建仁の乱[1201]で捕虜となった板額御前を妻に迎え入れたことでも知られる.

戦功により奥羽比内郡の地頭となり,浅利義遠の子の知義が下向したと考えられる.建武元[1334]年,比内に浅利六郎清連が大光寺曽我彦三郎を預かるという記録がある.南北朝時代には浅利氏は北朝方として比内を支配下に収めていた.もっとも,この時点では発祥の地である甲斐国にも拠点があり,比内浅利氏と甲斐浅利氏は完全には分離していなかったであろう.

北の津軽には南部氏・大浦氏,南の泉北郡には小野寺氏・戸沢氏,東の鹿角郡には南部氏,西の檜山郡には安東氏と周囲からの圧力に囲まれながらも独立を保っていた比内浅利氏ではあったが,天文年間になると安東氏の支配を受けるようになっていく.とは言っても,浅利則頼[-1550]は独鈷城を拠点に勢力圏を拡大し,笹館城・花岡城・扇田長岡城と重臣の浅利牛欄を八木橋城の守将として比内を固めている.

浅利則頼の子の則祐[-1562]は檜山安東氏と湊安東氏との抗争に際して湊安東氏に与したために檜山安東氏から攻められる.ここに,則祐の弟の勝頼[-1582]が檜山安東氏と組んで則祐を自害に追い込んだ[1562].浅利勝頼は大館城を築城し浅利氏の家督を承継.ところが,天正10[1582]年,宴席の場にて檜山安東愛季の配下の蠣崎慶広によって謀殺される.

これにより,檜山安東氏と湊安東氏との間の長年にわたる湊騒動は決着をみるが,比内浅利氏は檜山安東氏に取り込まれることとなる.安東愛季は家臣の五十目秀兼を比内大館に入れて統治させた.

浅利勝頼の子の頼平[-1598]は津軽の大浦氏の元へと亡命.天正15[1587]年,檜山安東愛季が世を去り,幼少の安東実季[1576-1660]が当主となると,浅利頼平は旧領へ侵攻.同じ頃,湊安東通季[1564-]が檜山安東実季による家督相続に異議を唱えて挙兵[湊合戦;1589].湊安東通季は戸沢氏・小野寺氏・南部氏と組んで檜山安東実季を追い込んだ.この過程で,比内大館は南部氏に与していた大光寺氏や五十目秀兼の離反によって南部氏よって占領.北信愛[1523-1613]が城将として入った.

檜山安東実季は由利郡の赤尾津氏および津軽の大浦為信に支援を求め比内を奪還.比内奪還に功のあった大浦為信の斡旋により浅利頼平は比内に復帰[1590].また,檜山安東実季は湊安東通季の駆逐に成功する.

比内に帰還した浅利頼平であったが,檜山安東実季に服属したという訳ではなく,大浦為信の支援の下で安東氏に反旗を翻す[浅利騒動;1593-1594].浅利氏家老の片山弥伝[比内中野]・浅利七兵衛[十二所]・浅利内膳[八木橋]は浅利頼平から離反し安東実季に従った.

文禄5[1596]年,豊臣政権による停戦命令発令.浅利頼平は蟄居を命じられ,浅利氏は安東氏の軍役に従うこととされる.ところが,浅利氏と安東氏の抗争は終息せず,安東氏側を佐々行政・長束正家・木村重茲が支持し,浅利氏側を浅野長吉・前田利家・徳川家康が支持し膠着状態に陥る.

その中,慶長3[1598]年,上洛していた浅利頼平が毒殺される.

檜山安東[秋田]実季は関ヶ原の戦いでは東軍であったにも関わらず,徳川家康によって常陸国宍戸へと転封となった.浅利氏は,代わって入部した佐竹氏の家臣となって存続して行くこととなる.