御堂流 Midoh

概略 Summary

藤原北家九条流の摂政・太政大臣藤原道長の子孫の一門.

藤原道長が法成寺を創建して「御堂関白」と呼ばれたことが家名の由来.

藤原道長自身は藤原北家九条流の兼家の嫡男ではなく,道隆・道兼という兄の後を承継する形で,かつ,道隆の嫡男の伊周との権力闘争を勝ち抜いて摂政の地位を確保した.


●藤原 道長 Fujiwara no Michinaga[966-1028]

藤原北家.摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男.後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父.従一位,摂政,太政大臣,准三后.

藤原道長が法成寺を創建し「御堂関白」と呼ばれていたことから,彼の子孫は御堂流と言われる.

源頼信・平維衡・平致頼・藤原保昌を道長四天王として郎党とした.源頼信は河内源氏,平維衡は伊勢平氏であり,のちの武士の台頭の萌芽は摂関政治の絶頂期に築かれたと言える.

●藤原 頼通 Fujiwara no Yorimichi[992-1074]

藤原北家,摂政太政大臣藤原道長の長男.従一位,摂政,関白,太政大臣,准三宮.

父の藤原道長の圧力によって,三条天皇が退位し敦成親王が後一条天皇として即位すると,その翌年の長和6[1017]年には摂政と藤原氏長者の地位を受け継ぐ.時に頼通は僅か26歳.ここに父子による摂関体制の最盛期が到来することとなる.

万寿4[1027]年に父・藤原道長が世を去ると,長元元[1028]年には平忠常の乱,永承6[1051]年には前九年の役が勃発.源頼信頼義父子が台頭する契機を産んだ.

治暦4[1068]年に後冷泉天皇が崩御すると,藤原氏との間に血縁関係のない尊仁親王が後三条天皇が即位すると摂関体制に陰りが出る.

後三条天皇は延久4[1072]年に貞仁親王に譲位.こうして白河天皇が誕生すると後三条上皇が院政を開始するものと思われた.しかし,後三条上皇は半年で死去.

しかし,延久6[1074]年には頼通もこの世を去った.

こうして,時代は白河天皇が開始する院政へと移っていくこととなる.

●藤原 通房 Fujiwara no Michifusa[1025-1044]

藤原北家.関白・藤原頼通の長男.正二位,権大納言,右近衛大将.

藤原頼通の庶長子として生まれる.しかし,頼通の正室・隆姫女王は男子に恵まれなかったため嫡男とされ,祖父の藤原道長の土御門殿で養育を受ける.さらに,隆姫女王の弟の源師房の娘・源妧子を正室に迎える.

長久5[1044]年4月27日に急病のため20歳で世を去る.この結果,弟の師実が摂関家を承継することとなる.