甲賀53家 Kouga 53 families

概略

応仁の乱[1467-1478]が終焉した後,西軍に参加していた近江国守護の六角行高[高頼;-1520]は六角家の戦国大名化を企図し,領内の公家・寺社領,室町幕府奉公衆領を配下の国人宗に分け与えた.これに対して,幕府の勢力回復を目指す室町幕府第9代将軍・足利義尚は長享元[1487]年に近江国への親征を敢行.管領・細川政元,若狭守護・武田国信を率いての進軍に,六角行高は観音寺城を捨てて甲賀山中へと逃亡しゲリラ戦法で幕府軍を迎え撃った.

将軍の命に応じて,越前国守護の朝倉貞景は一族の朝倉景冬を,西軍総大将出会った足利義視・義材を保護していた美濃国守護の土岐成頼は嫡男の政房を,尾張国守護の斯波義寛は尾張下四郡守護代の織田敏定と尾張上四郡守護代の織田寛広の両織田家軍を派遣.続々と,大軍が将軍のいる栗太郡の鈎の安養寺[鈎の陣]へと参集.

これに対して,甲賀の地侍53家は六角行高に味方し幕府の大軍を迎え撃った.幕府軍は大軍ではあったが,尾張の軍勢は朝倉家による越前支配の正当性を問題とし,朝倉軍と袂を別つなど,烏合の衆に近い有様であり,数にして圧倒的に劣る六角軍に翻弄された.その中,長享2[1488]年になると,将軍・足利義尚が病に倒れ,鈎の陣にて世を去ってしまう.ここに,幕府軍を構成していた諸大名軍は陣を引き払い,それぞれの国へと戻っていった.

但し,六角行高が赦免されたかというと,そうではなく,延徳3[1491]年に再び幕府軍の追討を受けることとなる.

この一連の軍事衝突を長享・延徳の乱と呼ぶが,この時に,六角軍として幕府軍を迎え撃ったのが以下の甲賀53家である.

甲賀53家構成家

甲賀53家は代表10家を選出して郡中惣を行なった.また,甲賀53家の中核をなす甲賀21家を,柏木3家,北山9家,南山6家,荘内3家に分けて合議を行なったという.

筆頭格

望月家:甲賀53家筆頭格.平将門の乱で戦功のあった信濃国の望月三郎兼家が朝廷より近江国甲賀郡主に任ぜられたことが起源.

柏木3家

北山9家

南山六家

荘内3家

甲賀21家以外