一色丹羽 Niwa

清和源氏義国流で足利氏の一門・一色氏は足利泰氏の子・公深が三河国吉良荘一色を領して一色を名乗ったことが起源.室町時代には,赤松氏・京極氏・山名氏と並んで室町幕府の四職と称された.

その一色氏のうち,九州探題一色範氏の長男・一色直氏の子の一色氏兼を祖とする一色氏明が,一族の一色詮範[1340-1406]が三河守護に任ぜられた際に同行し丹羽庄に入部し丹羽を名乗ったことが一色丹羽氏の始まり.

丹羽氏員は本郷城を本拠とし,その子・氏興[-1536]は本郷城を継ぐ.氏興の弟・右京進は藤島城を築城し分家した.氏興の子・氏清[1485-1560]は尾張・三河両国の要衝である岩崎城に本拠地を移した.

もともと,岩崎城は織田信秀に属した荒川頼宗が守っていたものを,三河岡崎城主・松平清康[1511-1535]が攻め落としていた.その松平清康が守山の陣中で家臣の阿部正豊によって暗殺される[守山崩れ;1535].この事態に際して,松平軍は尾張国から撤退.岩崎城は放棄された.そこに進出したのが丹羽氏清ということになる.

天文20[1551]年には,本家の丹羽氏清・氏識父子に対して,分家の藤島城主・丹羽氏秀が叛旗を翻す.丹羽氏秀は織田信長に支援を要請し,織田信長は軍勢を派遣するも丹羽氏清・氏識の軍勢に押し返され,丹羽氏秀の叛乱は失敗に終わり氏秀は三河国へと亡命.

丹羽氏識の子の氏勝[1523-1597]は織田信長の叔父で守山城主の織田信次[-1574]に仕えていたことが知られている.織田信次が織田信長により追放されると,丹羽氏勝は織田信長に仕えた.

ところが,天正8[1580]年,丹羽氏勝は織田信長によって追放される.もっとも,丹羽氏勝の子の氏次[1550-1601]は織田家中に留まることを許され,織田信忠の下に配属された.本能寺の変で織田信長・信忠が討たれると織田信雄に仕えた.織田信雄の勘気を被って追放されると徳川家康に仕えた.

天正12[1584]年に豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが行われた時,丹羽氏次は弟の氏重[1569-1584]に岩崎城を守らせ,徳川家康の軍勢に従った.岩崎城は池田恒興・森長可らが率いる豊臣秀吉軍三河中入り部隊によって落城.丹羽氏重は討ち死にした.この岩崎城の攻防戦は結果として豊臣秀吉の中入り部隊を足止めすることとなった.同じ頃に,同じく豊臣秀吉軍三河中入り部隊の豊臣秀次は徳川軍の榊原康政の襲撃にあって撤退.徳川軍出現の報せに,岩崎城に入っていた池田恒興・森長可らは急遽引き返し長久手において徳川軍と対峙.激戦の中,池田恒興・森長可は戦死.

その後,丹羽氏次は徳川家康の斡旋によって織田信雄に再度仕え伊勢で7千石を領した.織田信雄が豊臣秀吉によって改易されると秀吉の命によって豊臣秀次の家臣となる.但し,子の氏資を徳川家康の家臣としている.

関ヶ原の戦いにおいては,丹羽氏次は徳川家康に与し岩崎城に入っている.この戦功により,三河国伊保1万石を与えられた.