1196[建久7]年

3月

23日 左大臣三条実房[1147-1225/09/20]が病により上表して辞職する

6月

京都守護一条能保[1147-1197/1/23]が平 知忠[1180-1196/07/22]を誅する。

平 知忠[1180-1196/07/22]

平清盛の四男・平知盛[1152-1185/04/25]の次男。

寿永2[1183]年の源義仲の京都侵攻による平家一門の都落ちの際に、父親の平知盛の命令によって伊賀にいた乳母子の橘為教に預けられる。

平知忠が伊賀にいる間、寿永4[1185]年に平家一門は壇ノ浦の戦いにて滅亡。父親の平知盛も入水自殺を遂げた。

建久7[1196]年に、源頼朝の妹婿に当たる一条能保の暗殺を計画し、京都の法性寺に潜んでいたところを捕らえられ討伐された。

9月

源頼朝[鎌倉殿]が津々見忠季[-1221/07/05]を若狭守護に任命する

津々見忠季[-1221/07/05]

秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む島津氏の一門で、薩摩国守護・島津忠久の弟。

惟宗家は近衛家の家司であり、かつ、源氏の家人でもあり、源氏との関係で中で、比企氏や畠山氏と密接な関係を有していたと言われる。特に、島津忠久・津々見忠季らの母は頼朝の乳母比企尼の娘の丹後内侍。

若狭遠敷郡玉置荘津々見保の地頭職に補任されたことで津々見を名乗った。

建久7[1196]年9月1日、若狭国の在庁官人で中原氏一門の稲庭時定[-1202/03/3]が源頼朝の勘気を被って、和久里時継らと共に所領没収と処分となる。没収された所領は津々見忠季に与えられ若狭国守護となった。

建仁3[1203]年に、第2代鎌倉幕府将軍・源頼家の外戚である比企能員が、北条時政に攻め滅ぼされた比企能員の変に連座して解任。

後に守護職に復帰。子孫は三方氏として存続した。

10月

源頼朝[鎌倉殿]が三善康信[1140-1221/08/27]に備後太田庄地頭職を与える

11月

和泉国の御家人に内裏大番役を命じる | 23日 中宮任子が内裏から八条院に移る | 25日 『建久七年の政変』勃発。第一皇子為仁親王[土御門天皇]の外戚となった土御門[源]通親が源頼朝[鎌倉殿]と血縁関係にあった関白九条兼実勢力の内裏からの駆逐を行う。前年の鎌倉殿の上洛で鎌倉殿の意識が大姫の入内にあり、その点で九条兼実との間に齟齬が生じていると判断した通親は承仁法親王[梶井宮]や丹後局と連携。この日、九条兼実と弟の天台座主慈円が罷免される。天台座主には承仁法親王[梶井宮]が就任。九条兼実の子の良経も政治の表舞台から去る。一方で通親は、京都守護一条能保の子の一条高能を参議に、高能の義理の弟の西園寺公経を蔵人頭とすることで鎌倉方との妥協点とした

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.