源 経基

源 経基の邸宅があったとされる六孫王神社

清和源氏は実は陽成天皇を祖とすると言われています.陽成天皇の皇子・元平親王と右大臣源能有の娘との間に産まれた嫡子・経基王は『続群書類従』の「源氏系図」によると,960(天徳4)年6月15日に源姓を賜り臣籍降下して源朝臣経基となりました.これが清和源氏の始まりです.

ちなみに,源経基の祖父の陽成天皇は清和天皇と藤原高子との間に産まれて876(貞観18)年11月29日に即位しています.しかし,883(元慶7)年8月12日に,突如,清和天皇の時代から政治の実権を握っていた摂政・藤原基経(堀河大臣)が辞任します.対して,陽成天皇は藤原基経の辞任を認めず朝廷内に緊張が走ります.その中で,11月10日に嵯峨天皇の曾孫で,嵯峨源氏・源蔭と陽成天皇の乳母・紀全子の間の子の源益が宮中で何者かに殴り殺されるという事件が起こります.『尊卑分脈』によると陽成天皇が犯人であるとしています.

鴻巣にある源経基の館跡

この宮中殺人事件の後、摂政・藤原基経は自らと従兄弟の関係にある、仁明天皇の第三皇子・時康親王を新帝の推戴を決め陽成天皇に退位を迫ります.嵯峨天皇の皇子で左大臣の源融が自らが皇位に就く意思を表明したのもこの時です.結局,源融は姓を賜り臣籍降下した人物が皇位に就いた先例はないと糾弾され,時康親王が光孝天皇として即位することになります.こうした経緯があったために,源経基を祖とする源氏の一門は自らを陽成源氏ではなく清和源氏と名乗ったと考えられています.

さて,902(延喜2)年1月11日,経基王は元服し,938(承平8)年に41歳にして武蔵介に就任します.朝廷の官位は藤原北家が独占していたことと,王号が許されるのは経基王の代までであることが大きく影響したのでしょうが,経基王は若干の兵を率いて自ら武蔵国へと赴任します.本拠地としたのは武蔵国箕田郷だとされています.

丁度,その時,東国で急速に台頭してきていたのが桓武天皇第4代の孫・鎮守府将軍平良将の嫡男・平将門です.当時、平将門は父親が早世したために,所領を伯父の常陸大掾平国香に押さえられていました.935(承平5)年,平将門は遂に伯父・平国香を討ち取ります.

派生氏族

名称氏族
満政流源 満政を祖とし、近江・美濃両国に進出した八島氏の流れを汲み、満政の六代孫である源重遠が平安時代後期に尾張国春日井郡浦野を本拠地としたことに始まる一族。
浦野、小田、岡、河辺、木田、小嶋、白川、高田、辻、辻岡、出羽、富田、富塚、豊田、彦坂、藤野、本間、水野、吉野、八嶋
満季流源満季の家督を醍醐源氏源高明の孫の源致公が継ぎ、近江を手始めに越前・三河へと進出した一族。
牛田、大野、高岸、高屋、林田、坂東、平井、久田、樋口、御園、山上、柳、米井
満快流源満仲の弟・源満快を祖とする信濃国を本拠とした一族。信濃源氏とも言われる。
有賀、大屋、片桐、諏訪、諏訪部、知久、中津、堤、手塚、中沢、夏目、那須、西、野辺、林、平塚、古江、二柳、松本、前沢、飯田、伊奈、村上、依田

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.