寿永4(1185)年

鎌倉と平家との戦いはいよいよクライマックスを迎える。1月には義経が京から摂津そして阿波と軍を進めた他、範頼の軍は豊後に達し平家に対する包囲網を形成。翌月、義経は屋島の戦いで平家を破る。勢いにのる義経軍は壇ノ浦で平 知盛率いる平家軍と全面衝突。遂に平家を海の藻屑とする。この戦いで平家の血を引く安徳天皇は入水し崩御。三種の神器も海に沈んだ。

壇ノ浦での義経の勝利は、すぐさま、鎌倉に伝えられる。鎌倉では頼朝(鎌倉殿)が亡き父の義朝の菩提を弔うために勝長寿院の棟上を行っている最中。縁起の良い報せではあったが、単純に喜ぶ鎌倉殿ではない。

弟の義経と一部の御家人が鎌倉の許可を得ないで朝廷から官位を受けていることに危機感を抱いていた鎌倉殿は次ぎの行動に移る。京からの独立によって自立を勝ち取ろうとしている関東武士団の力の集結の上に自らの正統性を持っている鎌倉殿にとって、京の朝廷との関係を勝手に持つという行為は許されざるものだった。

勝手に官位を得た御家人に対して尾張以東への立入りを禁止し、違反したものは所領没収の上斬刑に処するとの命令を出す。

義経は兄の心と関東武士団の数代にわたる労苦を理解したかどうか。義経は平 宗盛父子を鎌倉まで護送する。しかし、義経一行は鎌倉の手前の腰越で留め置かれ、結局は鎌倉に立ち入ることを認められず、宗盛父子は北條時政に引き渡された。

この時に義経が心情を書き送ったのが腰越状。大江広元を通じて鎌倉殿に伝えられることを意図した。腰越状を鎌倉殿が読んだとしても、関東武士団の年来の労苦を水の泡とし兼ねない行為に及んだ他の御家人を処分している手前、同じ血が流れているというだけで弟と言えども特別扱いをすることは出来ない。

結局、義経は再び平 宗盛父子を京へと護送するために引き返していく。なお、宗盛父子は近江の篠原で斬首された(6月23日)。

8月には鎌倉殿は三河、駿河、武蔵三国の最初の関東御分国の他に伊豆、相模、上総、信濃、越後、伊予を知行国として賜る。同じく、義経は伊予守、大内惟義は相模守に任命。

京の義経の心は次第に兄鎌倉殿から離れていく。そんな中、鎌倉殿は渋谷氏の土佐房昌俊を刺客として派遣。昌俊は六条堀河の義経邸を襲うも失敗し返り討ちに遭う。ここに至って、義経は後白河法皇に奏請して頼朝追討の宣旨を受ける。遂に懸念は現実のものとなり兄弟全面対決となっていく。

義経のもとに鎌倉殿と袂を別って木曾義仲のもとに走り、義仲のもとも去っていた叔父の源 行家が与力を申し出てくる。行家は源氏の間を次々と渡り歩いてきたが、もともと牛若として鞍馬にいた義経に挙兵を勧めたのは行家であったことには因縁を感じる。宣旨が下ったことを知った鎌倉殿は軍勢を近江・美濃に集結。自身も鎌倉を後にし黄瀬川に本陣を置く。義経・行家は当初多くの兵が馳せ参じて来るものと考えたが事は上手く運ばず、義経は九州総地頭、行家は四国総地頭の地位を得て西国を目指す。ところが摂津からの渡海は嵐のために失敗。義経一行は吉野を彷徨った挙句に第二の故郷である奥州を目指す。

鎌倉殿は自身への追討宣旨に抗議するとともに義経追討の宣旨を得る(11月8日)。そして、北條時政を京都守護に任命。義経と連携していた高階泰経の解官、右大臣九条兼実の内覧宣下を奏請し認められる。

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.