光厳天皇

後伏見天皇と西園寺公衡の娘・広義門院寧子の間に産まれた量仁親王(かずひと)が鎌倉幕府によって擁立され1331年(元徳3年9月20日)に即位。

当時,鎌倉幕府執権は北条高時であり,執権を支える内管領は長崎高資.彼らの専横に対する御家人の鬱憤は頂点に達していた.時の後醍醐天皇は北畠親房,万里小路宣房,吉田定房の三房を側近として起用し親政への意欲を燃やしていました.

1321(元亨元)年,父親の後宇多法皇が後二条天皇の子,つまり,自らの嫡孫である邦良皇太子の即位による大覚寺統の統一を望んでいることを嫌って,後醍醐天皇が父親の院政を停止し親政を開始します.1324年(元亨4年6月25日)に後宇多法皇が崩御.

邦良皇太子サイドと邦良皇太子の即位の後に皇位に就くことになっていた持明院統の量仁親王サイドは鎌倉幕府に対して,後醍醐天皇の退位と邦良皇太子の即位を働きかけます.当然,後醍醐天皇は反発.六波羅探題南方・大仏維貞が京都を離れ鎌倉に赴いている隙を突いて,側近の日野資朝,日野俊基を各地に派遣して倒幕を呼び掛けます.これは一見すると無謀な計画にも感じられますが,当時は日本国内で悪党と呼ばれる集団の幕府の統制を無視した活動が活発化していて,叛乱が成就する機運があったのです.

しかし,倒幕計画に応じた美濃源氏の土岐頼員の妻が父親の六波羅探題評定衆奉行の斎藤利行に計画を告げます.斎藤利行は土岐頼員に討幕計画への参画を断念させるともに六波羅探題に報告.鎌倉幕府は小串範行と山本時綱を派遣,倒幕軍の中心であった多治見国長と土岐頼兼を襲撃し討ち取ります.これを正中の変といいますが,多治見国長と土岐頼員が討ち取られた後に日野資朝,日野俊基は捕えられ鎌倉に連行されました.但し,日野資朝は佐渡島に配流となった一方で,日野俊基は許されて京都に戻っています.

正中の変では後醍醐天皇は鎌倉幕府による追求を逃れました.しかし,後醍醐天皇は倒幕を諦めた訳では決してありませんでした.退位の圧力が益々強まる中で,同じ大覚寺統の邦良皇太子が1326(正中3)年に病死.持明院統の量仁親王が鎌倉幕府の圧力によって新たな皇太子に立てられます.益々,退位圧力が高まる中,後醍醐天皇は日野俊基と文観と討幕計画を練ります.1333(元弘元/元徳3)年,側近の吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告.

鎌倉幕府は後醍醐天皇の御所に軍勢を派遣.後醍醐天皇は三種の神器を持って笠置山に落ち延び,楠正成とともに挙兵します(元弘の乱).鎌倉幕府は大仏貞直,金沢貞冬,足利尊氏,新田義貞らからなる討伐軍を派遣,笠置山を攻略します.次いで,鎌倉幕府軍は楠正成が籠城する下赤坂城を落城させます.この結果,後醍醐天皇は捕えられて退位させられ隠岐に配流となります.

鎌倉幕府は後醍醐天皇の退位とともに,量仁皇太子を光厳天皇として即位させました.

しかし,播磨で赤松則村が挙兵したことを始め,各地での叛乱は納まりませんでした.その中,伯耆の名和長年の助力によって,後醍醐天皇が隠岐を脱出し倒幕の綸旨を出します.これを討つために派遣された足利尊氏が幕府に対して叛旗を翻して,流れは一気に倒幕へと傾いていきます.叛旗を翻した足利尊氏は六波羅探題を攻め落とします.

六波羅探題北方の北条仲時(普恩寺流;1306-1333)は南方の北条時益(政村流;-1333)と一緒に,後伏見上皇・花園上皇とともに光厳天皇を連れて鎌倉へと落ち延びようとします.

しかし,近江国で北条時益は討死.北条仲時は番場蓮華寺にて佐々木道誉の軍勢に阻まれて一族432人が自刃.その自刃の前に佐々木道誉に対して,光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を渡しています.

光厳天皇は後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕運動が発覚して京都から落ち,幕府によって退位させられた際に,幕府によって擁立された天皇.そのため,鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇が復権すると即位自体を否定されることになります.これが建武の親政の始まりです.

後に,後醍醐天皇と足利尊氏が袂を分かつと,光厳上皇と皇弟の豊仁親王を担ぎ,豊仁親王を光明天皇として即位させます.この光明天皇が北朝の第2代天皇です.つまり,光厳天皇は後醍醐天皇に即位自体を否定されたことから北朝の初代天皇とされています.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.