新田義貞

福井の坂井の時宗称念寺にある新田義貞墓所[2010/08]

鎌倉に攻め入って鎌倉幕府を倒し,足利尊氏のライバルとしても知られる新田義貞(1300-1338)は今の群馬県太田の地で新田朝氏の子として生を受けました.

新田氏は清和源氏の英雄・源義家(1039-1106)の子の源義国(1091-1155)の子孫.源義国は父親の義家から摂関家領上野八幡荘を相続し,隣の下野国にも進出して足利荘を開拓します.

源義国の死後,新たに開拓した下野足利荘は次男の義康(1127-1157)が受け継ぎ,嫡男の義重(1114-1202)は上野八幡荘を相続しました.嫡男の義重の子孫が新田氏で,次男の義康の子孫が足利氏になります.この関係が後々にまで絡んでくるのです.

源頼朝が伊豆で挙兵した際に,源義康の子・足利義兼(1154-1199)は鳥羽天皇の皇女であり,以仁王の猶母であった八条院暲子内親王の蔵人であったことから,以仁王の令旨に応じて挙兵した源頼朝に従いました.この時,既に父親の源義康は亡くなっています.

一方,新田氏の祖である源義重は健在.しかも,源頼朝は,源義家-義親-為義-義朝-頼朝と義家から何代も隔てているのに対して,義重は源義家-義国-義重と義家の孫に当たることから立場が上であると考え,源頼朝の優勢が確立するまでその麾下に入りませんでした.このことによって,新田氏は足利氏を含めた義国流の嫡流であったにも関わらず,鎌倉時代には立場が逆転してしまいます.

新田義貞は新田氏の第8代当主でしたが,その頃の新田氏はかつての面影も無く,新田荘60郷のうち相続していたのは数郷という状況でした.

新田氏館

後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の兵を挙げると,鎌倉幕府は鎮圧に乗り出します.その鎮圧のための軍資金を徴収するために幕府から北条一族の金沢出雲介親連と御内人の黒沼彦四郎が新田荘世良田に入ります.その時に金沢出雲介親連,黒沼彦四郎と新田義貞との間で争論となり黒沼彦四郎を斬殺し金沢親連を幽閉してしまいます.

報せを受けた鎌倉幕府は新田討伐の軍勢を出す方向に傾きます.これに対して,追い詰められた新田義貞・脇屋義助兄弟は遂に鎌倉幕府に叛旗を翻すことを決意します.なお,新田討伐の情報を伝えたのは,姪を新田義貞の妻に出していた得宗御内人の安東聖秀(-1333)だったと言われています.

新田義貞は1333年5月8日に新田荘の生品神社で挙兵し,利根川を越え,多摩川を渡り,鎌倉へと侵攻.遂には鎌倉幕府を倒します.武蔵国に入ったところで,鎌倉から逃れてきた足利尊氏の嫡男・千寿丸(足利義詮)と合流.鎌倉幕府の有力者であった足利氏の嫡男が倒幕側に加わったことで,新田軍は膨れ上がります.

新田(+足利)軍は11日には小手指に達し,北条一族の桜田貞国(1287-1333)を総大将,長崎孫四郎左衛門,加治二郎左衛門を副将とする幕府軍と干戈を交えます.この段階で鎌倉幕府軍のほうが軍勢が多かったものの,鎌倉幕府御家人の河越氏が新田軍に加わったことで戦線は膠着.新田義貞は入間川に,桜田貞国は久米川に兵を引いて対峙します.

関戸の古戦場

膠着はじりじりと破られ,幕府軍は分倍河原まで撤退.ここに,第14代執権・北条高時の弟の北条泰家(-1335)を大将とする幕府軍の援軍が到着.新田義貞は敗れて堀兼までの撤退を余儀なくされます.

そこに,今度は三浦の大和田義勝が三浦一族を率いて新田軍に加勢します.大和田義勝は足利一族からの養子であり,足利尊氏の命を受けて新田軍に加わったとも言われています.新田義貞の活躍の影に常に足利尊氏ありということになります.援軍を得た新田軍は,足利尊氏らによる六波羅探題攻略の報せが届いたこともあってか分倍河原の幕府軍を打ち破ります.

新田義貞はそのまま多摩川を渡河し,鎌倉幕府の関所が設けられていた現在の多摩の関戸にあった霞ノ関において北条泰家との決戦に持ち込みます.

阿保入道墓

北条軍は天守台と呼ばれた関戸城で新田軍を迎え撃ちますが包囲されてしまいます.新田軍は幕府軍を圧倒しますが,幕府側の安保左衛門入道道潭,栗田,横溝八郎らが必死に防戦し,大将の北条泰家率いる北条軍は鎌倉を目指して落ち延びていきます.

安保左衛門入道道潭も横溝八郎も,この関戸の地で討死.

なお,武蔵守護代安保父子の亡骸は民家の庭先の塚に葬られます.

この戦いの結果,新田軍は,鎌倉を目指して一気に進撃することになります.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.