堀家[越後村松藩]

村松藩堀家の祖の堀直政[1547-1608]は本来,奥田姓であり,もともとは足利一門の斯波一族の流れを汲んでいます.堀直政は,堀秀政の従兄弟という関係にありましたが,堀家の家老となります.

堀秀政は織田信長,豊臣秀吉に従って大名となり,上杉景勝が越後から会津に移封されると,子の堀秀治は春日山城を中心として越後を支配を任されます.

しかし,1608[慶長13]年,家老の堀直政の死後,子の堀直清[1573-1641]と坂戸藩主・堀直寄[1577-1639]が家督巡って争います.1610[慶長15]年に堀直清が主君・堀忠俊[1596-1622]に堀直寄の追放を訴えると,堀直寄は徳川家康に対して堀直清の専横を訴えるという事態に発展.徳川家康は駿府城に堀忠俊以下を呼び出し,徳川秀忠などが居並ぶ中で双方の言い分を聞きます.この時,幼少の堀忠俊が堀直清を弁護したことや,堀直清が浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせ敗れた浄土宗僧侶を処刑した事件に,徳川家康は激怒.堀忠俊は越後高田藩45万石を改易,磐城平藩主鳥居忠政預かりとされます.堀直清も改易され,山形藩主・最上義光預かり処分となります.

ここに,堀家の嫡流は事実上滅亡することとなります.

勝訴した堀直寄も信濃飯山藩4万石へと減じられ移封となりました[越後福嶋騒動].

堀直寄は大坂夏の陣では大坂城五人衆の後藤基次[1560-1615]の軍を打ち破っている.こうした活躍により,徳川家康からは藤堂高虎,井伊直孝と並び称されるようになります.また,徳川家康から百万石の禄を与えるという御墨付きを得たと伝わります.

松平忠輝が改易されると,堀直寄は3万石加増され長岡藩主となり,新潟発展の礎を築きました.さらに,1618[元和4]年には2万石の加増を受けて越後村上藩に封じられます.堀直寄は,1639[寛永16]年に駒込別邸にて病死.

堀直寄の嫡男で越後村上藩第2代藩主・堀直次[1614-1638]は父親に先立って世を去っていたため,跡は孫の堀直定[1636-1642]が継ぎます.わずか4歳でしたが,江戸幕府の有力者・土井利勝の外孫だったために3万石の加増を受けています.しかし,1642[寛永19]年に,堀直定は夭折.村上藩主家は無嗣断絶となります.

堀直定は新たに加増された3万石を叔父の堀直時[1616-1643]に分与し越後安田藩を立藩させていました.これが越後村松藩の始まりです.

堀直時の子・堀直吉[1637-1676]が領地替えにより陣屋を安田から村松に移して正式に越後村松藩が成立します.以降,明治維新に至るまで越後村上藩は堀家が治めました. 

堀一族の系譜

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.