堀家[飯田藩主家]

飯田には1590[天生18]年に尾張守護・斯波義統[1513-1554]の子と言われる毛利秀頼[1541-1593]が豊臣秀吉[1537-1598]により封じられています.毛利秀頼が亡くなると,娘婿の京極高知[1572-1622]が遺領を継ぎます.京極高知が関ケ原の戦いの後に丹後宮津藩に移封.

その後,飯田には小笠原秀政,脇坂安元・安政と続き,1672[寛文12]年に堀親昌[1606-1673]が下野烏山藩から入りました.以降,堀家が明治維新まで飯田藩の藩主として統治しました.

堀家は藤原利仁流と伝わり,利仁八世の孫・季高が堀を称したのを始まりとしています.堀利秀の代に斎藤道三の美濃国に移り茜部を本拠地にしたといいます.

堀秀政[1553-1590]は斎藤家滅亡後に織田信長の側近の大津長昌[-1579],続いて,豊臣秀吉に仕えました.後に,菅屋長頼・福富秀勝・大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・万見重元らとともに織田信長の側近として活躍するようになります.

1582[天正10]年,本能寺の変が起こった際には,豊臣秀吉の軍監として対毛利戦線にいました.そして,豊臣秀吉による山崎の戦いには中川清秀・高山右近らと先陣を務めます.

清州会議の結果,堀秀政は丹羽長秀が城主を務めていた近江佐和山城を得ます.更に,四国平定戦などの戦功により越前国北ノ庄に封じられます.越前国北ノ庄は丹羽長秀が123万石で治めていた地であり,丹羽長秀の死後は子の丹羽長重[1571-1637]が引き継いでいました.しかし,1585[天正13]年の佐々成政征伐の際に,丹羽長重は豊臣秀吉から嫌疑が掛けられ若狭1国15万石に減封.

堀秀政は,この跡を引き継ぐ形となりました.1587[天正15]年の小田原征伐時に堀秀政は陣中で没しました.

その跡は子の堀秀治[1576-1606]が継ぎ,伏見城築城への貢献などから1598[慶長3]年に,越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石へ加増移封.豊臣秀吉が亡くなると徳川家康に接近し関ケ原の戦いも東軍として戦いました.

この堀秀治の弟が堀親良[1580-1637].兄が越後春日山に移封となると,蔵王堂に4万石で同じく移封となります.関ケ原の戦いでも兄とともに東軍として戦います.兄の家は改易となるものの堀親良は一族の争いから出奔していたために連座を免れました.

大坂の陣では土井利勝の旗下として参戦.1618[元和4]年に下野烏山に2万5千石で封じられました.その堀親良の嫡男が堀親昌です.

堀一族の系譜

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.