松浦家

松浦家は源頼光四天王の筆頭・渡辺綱[953-1025]の曾孫の源久[渡辺久;1064-1148]が肥前国松浦郡宇野御厨荘の御厨検校に任ぜられて松浦に下向したのが始まりと伝える家柄.

摂津源氏の源頼光[948-1021]が肥前守に任ぜられ渡辺綱を連れて筒井村[伊万里市波多津町筒井]に下向.995年に京都に戻るまでの間に,渡辺綱は奈古屋で授をもうけたといいます.源久は,この授の孫に当たり,御厨検校として松浦郡宇野御厨荘に下向.梶谷を本拠地として,源太夫判官と称して松浦郡,彼杵郡,壱岐郡に勢力を伸ばしました.

松浦久の子で,松浦直が下松浦党の祖となり,松浦公頼こと松浦正が上松浦党の祖となり,合わせて四十八家あるいは五十三家からなる松浦党が形成されていきます.上松浦の範囲は,現在の福岡県糸島郡,佐賀県の東松浦郡,唐津,西松浦郡,伊万里.下松浦の範囲は,現在の長崎県の南松浦郡,北松浦郡,松浦,佐世保,平戸,生月,宇久島,五島列島.

平安時代には松浦党の本拠地は平家の支配下にあったため,源平合戦においては,松浦党は平家方の水軍として活躍します.しかし,壇ノ浦の戦いにおいて,松浦党は源氏方に転じ,源氏の勝利に貢献.この戦功により鎮西御家人の列に加わります.

時代は大きく下って,下松浦党の傍流の中から平戸を本拠地とした平戸松浦家が勃興してきます.

松浦正こと松浦弘定[1466-1515]は平戸の西を勢力圏としていた津吉氏を下したことを始めに,生月の加藤氏,一部氏,山田氏を下していきます.松浦弘定の兄・昌は田平の峯弘の養子となり峯氏を名乗っていましたが,所領を巡って対立.松浦弘定は兄の守る里城を攻め,昌を有馬氏のもとへと追いやります.

1491[延徳3]年,峯昌を擁立した日野江城・有馬貴純が松浦党宗家である相浦松浦氏の松浦定[1446-1492]と連合し,松浦弘定の白狐山城を攻撃します[箕坪合戦].白狐山城を支えきれなくなった松浦弘定は箕坪城に籠城.しかし,箕坪城も猛攻に耐え切れず,周防の大内義興[1477-1529]を頼って落ち延びます.この時,大内政弘から偏諱を受け,名前を正から弘正へと変えます.

1497[明応6]年,大内義興は肥前に攻め入り,少弐政資[1441-1497]・高経[-1497]父子を討ち取ります.更に,肥前守護代に任命した祇園千葉氏の千葉興常に龍造寺氏・大村氏・蒲池氏を率いさせ,有馬氏の牽制のために,有馬氏に与していた志佐純勝の直谷城を攻撃.志佐純勝を駆逐すると平戸に松浦弘定を復帰させます.

松浦弘定は志佐氏と対立していた兄・昌と和解すると昌の子・松浦興信[-1541]を嗣子として迎えます.こうして,兄弟の対立を解消した松浦弘定は,1498[明応7]年,自分を平戸から追放した宗家・相浦松戸家の松浦政の居城・大智庵城を襲撃.松浦政を自刃に追い込みました.松浦政の子・親[1494-1577]は幽閉されますが,後に脱出し,平戸松浦家を継いだ松浦興信との間で抗争を繰り広げることになります.1541[天文10]年,松浦興信は病を得て急死.子の松浦源三郎隆信[1529-1599]が13歳で家督を継ぎます.松浦隆信は,有馬氏や龍造寺氏と干戈を交え勢力を固めていきます.そして,遂には松浦党宗家の相浦松浦家・松浦親との和議を整え,相浦松浦家に養子に入っていた有馬晴純[1483-1566]の子・松浦盛を追放し,平戸松浦家から松浦丹後守九郎親を宗家に入れて、松浦党を統一します.

一時は龍造寺隆信[1529-1584]の勢力下に組み込まれますが,1584[天正12]年に龍造寺隆信が討死すると再び独立.1587[天生15]年,豊臣秀吉による九州平定に際して所領安堵を受けます.隆信の子・松浦鎮信[1549-1614]は1590[天正18]年には豊臣秀吉の小田原征伐に水軍を出撃させています.

関ケ原の戦いにおいては,大阪にいた子の松浦久信[1571-1602]は西軍に参加.しかし,松浦鎮信は肥前神集島における去就会議において大村純忠の長男・大村喜前[1569-1616]とともに東軍への参加を決めます.このため,関ケ原後、徳川家康より,壱岐と松浦郡6万3,200石の所領を安堵されました.


平戸城

平戸松浦氏の居城・平戸城[別名:亀岡城]は1599[慶長4]年に築城が開始された日の岳城に起源を持ちます.文禄慶長の役からの帰還後に築城した日の岳城が築城の途中の1600[慶長5]年に関ケ原の戦いが勃発.平戸にいた松浦鎮信は東軍に与することに決めたものの,大阪にいた子の松浦久信が西軍に付いていました.このような状況下,徳川家康の疑念を払拭するため,松浦鎮信は築城途上の城の一部を焼却.

その甲斐もあって所領を無事安堵され日の岳城は完成します.しかし,1607[慶長12]年に大火によって焼失してしまいます.

それから100年あまり後の1704[宝永元]年に平戸藩第5代藩主・松浦棟[Takashi;1646-1713]により平戸城として再建.


2017/03/26

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.