織田家[柏原藩主家]

丹波柏原[Kaibara]藩は織田家が領しましたが,前期織田家と後期織田家に分かれ,それぞれ系統が異なります.

まず,前期織田家ですが,天正年間[1573-91]に織田信長の弟・信包が36,000石で柏原に入ります.織田信包の後,信則,信勝と続きます.しかし,織田信勝に子が無く,無嗣断絶となってしまいます.ここで,一旦,柏原藩は廃藩となります.

1694[元禄7]年10月30日,織田信長の次男・信雄の直系に当たる大和宇陀藩第4代藩主・織田信武[1655-1694]が松山陣屋にて自害してしまいます.

この自害の背景には,初代信雄から仕えた古参衆と第2代高長から仕えた加賀衆の対立があり,加賀衆で織田信武の寵臣・中山正峯を古参衆の家老生駒則親,年寄・田中安定,生駒正純,中老生駒玄矩,組頭大野忠友が訴えたことに端を発する宇陀崩れがありました.訴えは退けられましたが,これを不服として,田中安定と生駒則親の子で家督を継承していた生駒則正とともに再訴に及びます.しかし,逆に,織田信武の逆鱗に触れ上意討ちとして斬殺されます.生駒家は弟・則之も自害.則之の子の則定・主馬兄弟も斬殺.親の元家老・生駒則親は禁固処分とされました.この騒動はたちまちのうちに幕府の知るところとなり,幕府からの追及を恐れた織田信武は自害するに至ったというのが真相.

織田信武は,尾張藩主・徳川光友の養女・智姫[広幡忠幸の娘]を妻とし,智姫亡き後は,智姫の妹・清姫と再婚するなど徳川家とも繋がりが深い人物.28,000石の陣屋外様大名だったものが国主大名格をも与えられていました.そのため,重い責任を問われ,格式を剥奪され断絶の危機に見舞われました.

ところが,織田信長の次男・信雄の直系であるという名門の家柄故に断絶は辛うじて免れます.とはいえ,宇陀藩に留まることは許されず,織田信武の子・織田信休[1678-1723]は8,000石を減じられ,丹波氷上郡,何鹿郡,天田郡内で20,000石に転封を命じられました.これが柏原藩後期織田家の始まり.

陣屋は氷上郡柏原に置かれ,家臣数は1869[明治2]年時点で家族込みで900人.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.