右三階松

公家出身で征西将軍・懐良親王に従って九州に下向した筑後五条氏の家紋.

筑後五条

広澄流清原氏支流五条氏.一条天皇[980-1011]の代の明経博士・清原広澄の子孫・良枝の子である頼元[1209-1367]を家祖とする.

五条頼元は南朝の征西将軍・懐良親王[1329-1381]に従って九州に下向.幼い懐良親王を支え九州の武士を南朝方に糾合.その子孫も九州に留まった.

筑後国・豊後国・肥後国の境目の矢部山[高屋]城を拠点とし,室町時代には筑後国守護職の菊池氏に従った.戦国時代に豊後の大友氏が筑後国に進出すると,大友氏の麾下に入る.五条鑑量・鎮定・統康は,それぞれ大友義鑑・義鎮・義統から偏諱を授与されるという関係を構築.

大友宗麟と薩摩国の島津義久が激突した耳川の戦い[1578]で大友氏が敗れると,筑後国の国人衆の多くが大友氏から離叛する中で,五条鎮定は問註所統景[-1593]とともに大友方に留まった.豊臣秀吉による九州征伐後は所領は筑紫広門に与えられ筑紫氏の与力とされた.五条鎮定の子・統康は柳川藩立花氏に仕えた.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.