丸に十字

日向国の国衆・北郷氏[ほんごう]の家紋.

北郷

惟宗氏島津氏支族.島津宗家第4代・島津忠宗[1251-1325]の子の資忠[-1359]を祖とする.島津資忠は足利尊氏・義詮より島津荘日向方北郷を宛てがわれ,文和元[1352]年に館を構え北郷を称した.在地の宮内氏と姻戚関係を結ぶことによって勢力圏を築いたとされる.第2代の北郷義久は南郷都島に都之城を築く.

九州探題・今川了俊[1326-1420]が筑前守護・少弐冬資[1337-1375]を誅殺する[水島の変]と島津氏6代・島津氏久[1328-1387]は反発して今川了俊から離反.都之城は市来氏・渋谷氏・牛屎氏・菱刈氏・禰寝氏・肝付氏・伊東氏・土持氏・北原氏・野辺氏・相良氏を従えた今川了俊の子・今川満範によって攻められ,北郷義久の弟・基忠,忠宣が討死[蓑原の合戦;1379].応永元[1394]年,今川了俊の子・尾崎貞兼が島津方の和田正覚の梶山城に攻め寄せる.この戦いで援軍として参加した北郷氏第3代の北郷久秀と弟・忠道が討死.北郷氏の家督は弟の北郷知久が受け継いだ.

北郷氏は北原氏・伊東氏・新納氏・肝付氏の勢力に囲まれ厳しい状況に置かれたが,第8代・北郷忠相[1487-1559]は野々美谷城の割譲し伊東祐充[1510-1533]と和議を結ぶと,本田親尚・新納忠勝[1491-1549]への反転攻勢に出る.天文元[1532]年には豊州家3代島津忠朝[1466-1540]・北原久兼と結んで,福永祐炳ら福永一族による家中騒動に揺れていた伊東領・三俣院高城へと侵攻[不動寺馬場の戦い].伊東軍は大敗し,北郷軍は失地回復に成功.

第9代・北郷忠親[1512-1571]は嗣子が夭折した豊州家・島津忠広の養子となり豊州島津氏を承継.伊東義祐と肝付兼続への攻勢を強めた.豊州家は伊東氏によって飫肥を失うものの北郷氏の版図は拡大する.

第10代・北郷時久[1530-1596]は島津義久との関係を強め肝付兼亮[1558-1634]を下している.

近世,島津に復姓し都城島津家として存続した.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.