新海道カフェ

[1868年]

1867年 慶應2年

1867/01/10 慶応2/12/05

徳川慶喜(天保8[1837]年9月29日-大正2[1913]年11月22日)が第15代の征夷大将軍となる。
徳川慶喜は水戸徳川家の出身で、父親は水戸藩主徳川斉昭。弘化4(1847)年に御三卿の一橋家を相続。
英君の呼び声高く幕政の建て直しに奔走。大老の井伊直弼と第13代将軍家定の継嗣と日米修好通商条約を巡って対立したことで隠居謹慎処分を受けるも、文久2(1862)年に朝廷と島津久光の要請によって将軍後見職として幕政改革を推進。
攘夷派に対して公武合体を唱えるも攘夷派の抵抗に合う。
文久3年8月18日(1863年9月30日)の禁門の政変(8.18政変)によって長州藩を中心とする攘夷派が一掃されると、参与会議の場で松平慶永、山内豊信、伊達宗城と連携を深める。しかし、この辺りから島津久光と袂を別つ。
元治元年7月19日(1864年8月20日)、勢力挽回を図る長州軍が朝廷を警備する大垣藩軍と衝突したことで始まった禁門の変では諸藩軍を指揮し長州軍を敗退させる。
その後、関白二条斉敬(なりゆき)、朝彦親王ら朝廷側との連携のもと、京都守護職の会津藩主松平容保、京都所司代の桑名藩主松平定敬とともに事実上の一会桑政権を形成。
ところが、兵庫開港を巡って幕僚と対立した他、第2次長州征伐を巡って薩摩藩とも対立。これが後に、幕府の内部崩壊と一会桑政権に対抗する薩長同盟へと繋がる。
薩長による徳川将軍家武力廃絶の動きに対して大政奉還という先手を打つも、王政復古後の松平春嶽らによる尽力も虚しく、薩摩藩との間に広がった溝は修復し難く、鳥羽伏見の戦いを経て幕府の幕引きをせざるを得ない状況に追い込まれていった。
後事を田安慶櫑に託し上野寛永寺大慈院で謹慎し新政府軍に恭順。江戸開城に伴い水戸弘道館を経て静岡の宝台院で謹慎。
明治2年に謹慎処分を解かれ、5年には従四位、13年に正二位となり復権。21年には従一位に任ぜられ、31年には明治天皇と面談した他、35(1902)年には徳川宗家とは別に公爵の爵位を与えられた。

1867/01/14 慶応2/12/09

徳川幕府第14代将軍家茂の正室の皇女和宮が出家し静寛院宮となる。
孝明天皇の妹の和宮はもともとは有栖川宮熾仁(たるひと)親王の婚約者。それが桜田門外の変など幕末の混乱を収拾するために、老中久世広周(ひろちか)、 安藤信正らによって万延元年(1860年)に徳川幕府第14代将軍家茂の妻としての降嫁の願いが出され正室となった。

1867/01/14 慶応2/12/09

画家アングル(Ingres Jean Auguste Dominique)没す。

1867/01/30 慶応2/12/25

孝明天皇が36歳の若さで突然死去。痘瘡が原因とされる。公武合体派の精神的支柱だった孝明天皇が世を去ったことで、流れが変わったことは確かで、当初から毒殺ではないかという噂が囁かれた。

1867/02/13 慶応3/01/09

孝明天皇の子の祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王が明治天皇として即位。

1867/03/01 慶応3/01/25

ネブラスカ州が合衆国に加盟し37番目の州となる。

1867/03/15 慶応3/02/10

ハオーストリア=ハンガリーの二重帝国成立。

1867/04/01 慶応3/02/27

マラッカ、ペナン島、シンガポールが合併の上、イギリス(U.K)本国の直轄領化。

1867/04/16 慶応3/03/12

プロイセン中心とする北ドイツ(Germany)連邦成立。

1867/05/11 慶応3/04/08

イギリス(U.K)、フランス(France)、プロイセン、オーストリア、ロシア、オランダ、イタリア(Italy)、ベルギーの8ヵ国によるロンドン会議でルクセンブルク大公国の永世中立が認められる。

1867/05/15 慶応3/04/12

メキシコ皇帝軍がケレタロで共和派に降伏し、皇帝マクシミリアン自身がファレス軍の捕虜となる。

1867/05/17 慶応3/04/14

幕末の風雲児高杉晋作がこの世を去る。

1867/06/08 慶応3/05/06

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー国王として即位。

1867/06/19 慶応3/05/17

元メキシコ皇帝マクシミリアン(Maximilian Ferdinand Joseph)がメキシコの共和政権により銃殺刑。マクシミリアンはオーストリア・ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。

1867/07/01 慶応3/05/29

ノヴァ・スコシア、ニューブラウンズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなるカナダ自治領が成立。

1867/07/09 慶応3/06/08

尊王派の伊東甲子太郎らが新撰組と袂を別ち、高台寺月真院に移る。

1867/09/14 慶応3/08/17

マルクスの『資本論』刊行開始。

1867/11/09 慶応3/10/14

将軍徳川慶喜が大政奉還を上奏。翌日、大政奉還なる。

1867/12/10 慶応3/11/15

京都河原町四条の近江屋で坂本竜馬と中岡慎太郎暗殺される。

1867/12/13 慶応3/11/18

新撰組を分派していた伊東甲子太郎が新撰組によって暗殺される。