〜戦国時代

1455康正元享徳の乱勃発(-1483) 鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害し室町幕府、山内・扇内両上杉軍と対峙 (鎌倉公方邸跡古河公方館跡)
相模島河原合戦(1/5):関東管領山内上杉憲忠が鎌倉公方足利成氏によって暗殺されると、山内上杉家家宰で上野・武蔵守護代の長尾景仲は鎌倉の憲忠正室を引き連れて、憲忠正室の実家の扇谷上杉持朝の糟谷館へ避難。犬懸上杉憲秋、小山田上杉藤朝、扇谷上杉持朝・顕房父子と協議し、山内上杉憲忠の弟・房顕を次期関東管領として京都から迎え入れることを決し、山内上杉家の領国の上野へと帰国。越後守護の上杉房定に援軍を要請。これに対して、鎌倉公方足利成氏は上野への進撃のために武蔵国府中高安寺に陣を布く。鎌倉公方足利成氏が鎌倉を後にした報せを受けると相模の扇谷上杉持朝が鎌倉占領を目指すも、相模島河原(平塚市)で公方軍の武田信長と激突し敗戦。
分倍河原の戦い(1/21):上杉連合軍が鎌倉公方足利成氏が陣を構える府中高安寺を攻撃。足利成氏の反撃に会い、犬懸上杉憲秋が深手を負い高幡不動にて自刃。続いて、鎌倉公方軍の結城成朝が上杉連合軍を駆逐。結城成朝の激しい追撃を受けた扇谷上杉顕房、小山田上杉藤朝が武蔵夜瀬(三鷹市)で自刃。長尾景仲は上杉領の常陸国小栗城まで撤退。武蔵国の上杉家拠点を陥落させた鎌倉公方足利成氏は常陸小栗城を攻略するため下総古河城に入城(3/3)
千葉宗家vs馬加氏(3/20):千葉介胤直が足利成氏方の馬加康胤によって千葉城から追放される。
小栗城落城:公方軍の那須資持・筑波潤朝・小田朝久らが小栗城を攻撃し閏4月に落城させ長尾景仲を敗走させる。
関東管領山内上杉房顕が平井城に入城する(4)
越後・信濃守護上杉房定、駿河守護今川範忠が幕命により関東下向。
駿河守護今川範忠が鎌倉公方軍の木戸、大森、印東、里見氏を破り鎌倉を占領(6)。これによって鎌倉公方足利成氏は鎌倉に帰還出来なくなり古河を本拠地とする。
三宮原合戦(6/5):白井城から南下する両上杉軍を新田・鳥山・桃井ら足利成氏方の岩松持国軍が惣社の手前の三宮原で迎撃。岩松持国軍は敗れ高井要害に籠城。
淵名穂積原合戦(7/15):足利成氏方が岩国持国軍に那須・結城・小山・佐野・佐貫軍を加えて両上杉軍と激突。両上杉軍が勝利し武州・上州一揆勢を率いて天命・只木山に籠城する長尾景仲を救出。天命・只木山は12月に古河公方軍によって落城。
武蔵須賀合戦(12/3)庁鼻和城主・庁鼻和上杉憲信が騎西城を取り立て。長尾景仲らが籠城。武蔵須賀にて両上杉軍と古河公方軍が激突、古河公方軍が勝利。続いて、騎西城も落城。
1456康正2下総市河城落城(1/19):両上杉方の千葉実胤・自胤の籠城する市河城が落城。千葉実胤は武蔵赤塚城、千葉自胤は武蔵石浜城に逃れ扇谷上杉氏の庇護下に。
岡部原合戦(9/17):岩松持国・高左京亮ら古河公方軍と越後上杉房定・長尾景仲ら上杉軍が武蔵岡部原で激突。高左京亮討死。戦後、庁鼻和上杉房憲は深谷城を築城し古河公方軍に備える。
人見原合戦(10)
馬加康胤討死(11/1):室町幕府が派遣した東常縁によって上総八幡郷にて馬加康胤が討ち取られる。
1457長禄元河越城・江戸城築城(4):扇谷上杉持朝が太田道真・道灌父子に命じて河越城江戸城を築城。上田・三戸・萩野谷ら扇谷上杉家重臣が普請。以降、扇谷上杉家は本拠地を糟谷館から河越城に移す。
五十子陣築城:関東管領山内上杉房顕が五十子陣を築城。両上杉軍の対古河公方前線基地となる。
1467応仁元応仁の乱勃発
1485文明17山城国一揆
1488長享2加賀の一向一揆が守護富樫政親を倒す
1489延徳2足利義満が銀閣を造営
1491延徳3伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆を支配下に収める(北条五代の墓)
1543天文12種子島に鉄砲が伝来する
1553天文22武田信玄と上杉謙信が川中島で激突
道三塚郡上八幡城
1560永禄3織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を倒す(今川義元公墓所佐々木城跡)
1571元亀2織田信長、比叡山延暦寺を焼き討ち
1573元亀4織田信長、第15代室町幕府将軍足利義昭を追放