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福島県の流れ

現在の福島県域には、鎌倉時代に会津に蘆名家、北部に伊達家、南部に結城家、相双に相馬家が割拠していた。
 福島県域は阿武隈高地と奥羽山脈によって太平洋岸から浜通り、中通り、会津に分かれている。戦国時代には、このうち中通りの福島を抑える伊達家と会津に本拠地を構える蘆名家が覇権を競う。最後には伊達政宗が芦名義広を下し蘆名家は滅亡する(天正17[1589])。しかし、日本の過半を制した豊臣秀吉の前には抵抗出来ず、伊達家は会津領を秀吉配下の蒲生家に渡す。
 蒲生家が嗣子なく断絶した後は、徳川幕府3代将軍家光の異母弟保科正之が入封し、以後幕末まで保科松平家が統治。
 とはいえ、保科松平家の領地は現在の福島県全域に及んでいたわけではなく、戊辰戦争前は、福島、二本松、棚倉、平、そして会津の11藩と足守、新発田、関宿藩などの14藩の他に旗本領、幕府直轄領が現福島県域にあった。
 幕末に京都守護職を務めた会津松平家(23万石)は明治政府軍との会津戦争に敗北し取り潰しとなる(1868年)。戊辰戦争の後に明治政府側に帰順していた水戸藩支藩守山藩松平家、三春藩秋田家、中村藩相馬家はそのまま存続。その他の諸藩と旧幕府領は没収。その旧領に若松、福島、白河、平の各民政局が設置された。各民政局は、若松県、福島県、白河県設置と平藩復活によって廃止。
 福島藩板倉家は三河重原へ、会津藩保科松平家は陸奥斗南の地に移封された。
 その後に、更に統合が進められ、若松県、磐前県、旧福島県が統合して現在の県域を形成した。