『 筑紫君磐井の叛乱 』

 「継体帝には従わない勢力もあったわけだよね。そもそも、継体帝が大王家を継いだ経緯もあるのだろうけど、この継体帝の前に立ちはだかった最大ともいえる危機が筑紫君磐井の叛乱だね。」
 「新羅に併合された朝鮮半島南部を併合前の状態に回復させるための近江毛野臣率いる6万の大和朝廷派遣軍を筑紫国造磐井が阻止しようとしたと伝えられる戦いね。磐井はこのとき新羅側に内通して賄賂を貰っていたといわれている。その真偽はわからないけど、この磐井が当時の九州北部にかなり広汎な勢力圏を誇っていて、加えて新羅とも同盟に近いものを締結していたと言われるわね。その意味では、今のように、日本と朝鮮というような区別は薄かったのでしょうね。」
 「九州に多くの朝鮮半島系の人々が永住していたといわれるからね。それも単に住民として永住していたのではなくて、それなりの勢力を保っていたとすると、この戦いは朝鮮半島勢力の九州での攻防戦とも言えるかもしれない。継体帝の住んでいた、河内、田辺は古来から百済系の色濃い地と言われるように、継体帝の周囲には百済系の色を感じることが出来るし、いわゆる任那4県割譲の件も考えるとね。」
 「一方の筑紫君磐井は新羅系の色が濃いといえるわけよね。それで、磐井は大和派遣軍の進路を妨害した。まぁ、そこで戦闘の火蓋が切られなくてもいづれは決着を付けなくてはいけなかったんでしょうね。」
 「磐井は筑紫に加えて、火国・豊国の勢力を動員して大和朝廷に戦いを挑む。一方の大和朝廷も、継体天皇21年(527)8月1日に討伐命令を出して、物部麁鹿火(あらかい)を大将軍とする平定軍を派遣して応戦。筑紫君軍と大和軍の激闘は1年有余にも及ぶものとなったんだね。」
 「それでも、結局は磐井軍は、継体天皇22年の11月に御井郡(みいのこおり)の決戦で敗退。『日本書紀』によると、磐井は捉えられて処刑されたことになっている。但し、これには、豊国に落ち延びたという伝説もあるわね(『筑後国風土記』)。子の葛子は本来なら反逆罪によって父親とともに処刑されるはずだったけど、糟屋の所領を屯倉として献上したことで許されているわね。」
 「磐井も本当に処刑されたのかは分からないかもしれないね。処刑されたとしても、その勢力である筑紫君一族は乱の後も引き続いて大型墳墓を造営していることなどから、依然として八女あたりに勢力を張っていたとも言われているね。」
 「『古事記』だと、磐井は物部荒甲大連(もののべのあらかいのおおむらじ)と大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)によって処刑されたことになっているけどね。」