『 天保の改革 』

 「江戸三大改革の最期のしめとなるのが天保の改革。当然、それまでの享保の改革と寛政の改革を手本にして行われた。というわけで、評判の芳しくなかった先の改革と同様にこの改革もまた引き締め改革だね。」
 「改革を推進した老中の水野忠邦が就任したのは、丁度、天保の飢饉や大塩平八郎の乱で国内が大いに混乱していた上に、外国船が日本近海に出没し外圧をひしひしと感じ始めていたという、国政の舵取りをするには非常に難しい時期ね。こうした中で、乱れきった風紀を粛清して、武家の原点たる質素倹約の風に戻すべく構造改革を実施していくわけね。」
 「徳川家斉の将軍就任後すぐに、この改革は天保12年(1841)5月15日の将軍家慶の48回目の誕生日に将軍の上位として、『御政事之義、御代々思召は勿論之義、取分享保寛政之御趣意に不違様思召候に付、いずれも厚心得可相勤候』と全てを寛政の風に復古させることを宣言して始まったね。50年近く前の状態に社会を逆戻りさせるという、ある種滑稽とも言える政策だ。それだけに、如何に寛政の改革が模範とした8代将軍徳川吉宗の時代が幕府にとって理想とされていたのかがわかる。」
 「手始めは、株仲間の解散。これによって、それまで問屋仲間から冥加金を上納させていたのを取り止めて商品流通の自由化を推し進め、株仲間による価格カルテルを打ち破って物価を低く抑えることが目的。この目的は一応のところ達成されたとされるわ。」
 「日本の近海をうろうろとしていた外国船の取扱に対しては、『外国船打払い令』を出していたのを撤回し、燃料・水・食料の給与を認めるという柔軟策を取るね。」
 「柔軟策とは言えないと思うわ。その一方で江戸湾防備に心を砕いているでしょ。
水野忠邦はアヘン戦争を知っていたし、英国の次目標が日本であることも十分理解していた。そういう国際情勢に対応するための対応策の一環として考えるべきね。
 それから、ちゃんと基本通りの引き締め策も採用しているわ。江戸に集まってきていた各地の人の人別をあらため,人返しを行ったり、風紀紊乱の元であるとして、柳亭種彦・為永春水らの著書・版木を没収のうえ焼却。
 それに失脚の引き金にもなった、江戸10里・大阪5里四方の上知令。」
 「印幡沼干拓、利根川分水路開鑿なんかは先の改革の引き写しというか拡大版とも言える。とはいっても、一連の政策はよほど厳しすぎたのか、水野忠邦は43年に改革を始めてたったの2年で失脚し、改革も終止符が打たれている。」