[弘長の新制]

 関東に武士政権を打ち立てた源頼朝は、当初、流人という身分で統治機構を整備していった。源頼朝は武家の棟梁たる資格を有した清和源氏の嫡流ではあったものの、源氏は平家との抗争に敗れ壊滅状態にあったために譜代の郎党を欠いていた。従って、頼朝は関東勢を従わせるために、以仁王令旨や寿永二年十月宣旨といった京都の朝廷の権威を利用せざるを得なかった。
 これは鎌倉幕府の地位や権能が朝廷の法制である建久の新制(1191年)によって規定されていたということにも現れている。
 しかし、やがて鎌倉幕府はやがて幕府独自の法制によって立つようになっていく。
 弘長の新制(1261年)である。この弘長の新制以後は幕府は御成敗式目を根本法として自らの地位を規定していくようになる。
 そういう意味で、この弘長の新制こそは鎌倉幕府の京都朝廷からの独立を意味しているといえよう。


参考:近藤成一「鎌倉幕府の成立と天皇」『講座前近代の天皇 第1巻 天皇権力の構造と展開その1』(青木書店、1992)