[織田信長]
[織豊政権の法体系]

 「前期の分国法は式目の影響を、後期の分国法は織豊体制の一連の法令の影響を受けていると言われているね。」
 「織豊期とはいっても、織田信長は天下布武の途上で家臣の明智光秀によって本能寺で討たれたために体系的な法を施行する時間はなかったわね。」

 「それに、分国法というとただ領主が専制的に領民を抑えるとか家臣を統治するというのではなくて領主の行動も法で制約するという性格をもっていたから、信長はそういう制約を嫌ったのかもしれないよね。」
 「それは言えているわね。
 織田信長から治世を継承した豊臣秀吉の場合は?」
 「秀吉の場合にも治世が短かったからね。
 体系的な法令としては目立つものはない。
 だけど、朱印状があるし文禄4(1595)年の『御掟』と『御掟追加』があるね。これらは、徳川幕府の『禁中並公家諸法度』や『武家諸法度』に大きな影響を与えていくね。
 徳川幕府にほとんどそのまま継承された一番有名な例に五人組がある。
 この五人組は原型が五保という古代制度にあるって見方もあるけど、直接関係があるわけじゃなくて、江戸時代の五人組の制度と直接関係があるのは室町の固有法時代に発生したものだね。『由良家伝記』の中の「天文5(1536)年百姓御仕置御法度」に見えるのが最初(穂積博士説)とか、『里見家法度』が最初とか言われている(瀧川博士説)。」
 「その制度を全国的に布いたのは豊臣秀吉の慶長2(1597)年3月7日令ね。
 この法令で諸奉公人侍は五人組、下人は十人組に組織したのね。」
 「犯罪防止や税の効率的徴収を図るためのこの制度は徳川幕府に五人組という形で受け継がれていくわけだ。
 もっとも、文字通り五人、五戸で組織されたわけではないよ。
 砂川村では寛政11(1799)年時点で64組あったというけど、そのうち24組は五戸ではなかったというからね。」
 「えーと、話を基本法令に戻すわね。
 『御掟』と『御掟追加』のことよ。
 『御掟』と『御掟追加』は秀次事件の後の空白期に、秀吉が秀頼に体制を引き継ぐまでの統治機構を整える中で制定されたのよね。」
 「徳川家康(250万石)、前田利家(83万石)、宇喜多秀家(57万石)、上杉景勝(120万石)、毛利輝元(120万石)の五大老と、前田玄以(宗教担当)、浅野長政(司法担当)、増田長盛(土木担当)、石田三成(行政担当)、長束正家(財政担当)の五奉行からなる五大老・五奉行体制だね。」
 「『御掟』は五箇条からなっていて、
一、 諸大名の婚姻は上意を得ることが必要。
二、 大名、小名の間の契約や誓詞の取り交しの禁止。
三、 喧嘩・口論は堪忍を道理とすること。
四、 無実を訴えた場合は双方を召還し糾明すること。
五、 乗物赦免の衆を定める。
というもの。これを五大老と小早川隆景が連署して発布したのね。」
 「ところが、慶長3年8月に秀吉が死去すると、五大老筆頭の徳川家康が積極的な婚姻政策を採って、『御掟』を破っていく。
 伊達政宗の娘の五郎八姫を六男忠輝に、福島正則と蜂須賀家政の子息に養女を嫁がせていたわけだ。
 これに対して、『御掟』違反を咎めた石田三成と衝突し関ヶ原の戦いへと発展していき『御掟』の時代は終わるね。」