『 長屋王の変 』 729年(神亀6年)

 「長屋王は壬申の乱で大活躍した高市皇子の子。高市皇子は庶腹であったために皇位を望む地位にはなかったけど、それでも位が高いことには変わりない。だからこそ、その子である長屋王は藤原不比等なきあとは政権の柱となったわけだね。まぁ、その分だけ、藤原四兄弟には厄介な存在だったといえる。」
 「長屋王は、班田収授が困難になってきている社会経済状況を鑑みて、『三世一身の法』を出したり、渤海との国交を結んだりという一応の成果は挙げているわね。但し、仏教界には評判はあまり良くなかった。これは一つには、儒家の教養が深かったこととも関係があると言えるわね。」
 「当時、聖武天皇の夫人となった不比等の娘安宿媛が基王を産んだものの、その基王が直ぐに亡くなってしまい、その直ぐ後に、夫人県犬養広刀自が安積親王を授かり、藤原一族にとっては天皇の外戚の地位を保つことに危機が生じていたよね。」
 「そこで、窮余の一策として光明子を皇后に冊立して安積親王の立太子をなんとかして妨げようとするわけね。これに対して強く反対したのが、何を隠そう長屋王。」
 「その他にも、聖武天皇が母藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈るという勅を出したときも、大夫人というのは令では皇太夫人となり、勅は令に違反すると唱えているね。」
 「その上で、光明子の立后に反対している。これは、もはや藤原一族は自らの地位を保全するためにも長屋王を権力の座から取り除く必要があったわけよね。そして、神亀(729)6年2月10日に、従七位下塗部君足と無位中臣宮処東人がおおそれながらと長屋王を訴える。」
 「この身分の低い二人が、長屋王が左道を学んで国家転覆の謀議を行っていると告発した。朝廷の動きは迅速を極めた。事は国家転覆だからね。
 夜には、六衛府を式部卿藤原宇合の指揮をのもとに動員して、長屋王の屋敷を包囲する。そうしておいて、その翌日には、舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂が長屋王を窮問する。これを受けて、もはやこれまでと悟った長屋王は自害する。これが長屋王の変の全貌だね。」
 「本当に長屋王が国家転覆の陰謀を巡らせていたのかは不明ね。これを裏付けるものとして、『続日本紀』は東人は王を誣告人として紹介しているし、長屋王に仕えていた大伴子虫は東人の話を聞いて東人を斬殺したというエピソードが伝わっているわ。
 それに、長屋王が自害した半年後に光明子は晴れて皇后となっているわ。」