[源 頼朝]
久安3(1147)年 - 正治元(1199)年
 源氏の棟梁、源義朝の第3子として産まれる。母親は熱田大宮司藤原季範の女。


[源 頼朝公の墓]
薩摩島津家の建立による。
墓地の眼下には、法華堂の跡地に立つ白旗神社、その神社の前が源氏3代の幕府跡になる。

 平治元(1159)年に平治の乱で平家軍に敗れ捕縛、死刑に処せられるところを嘆願により、伊豆蛭ヶ島への流罪となる。
 治承4(1180)年に以仁王の令旨に応じて挙兵するも、石橋山合戦で敗戦。平家方の坂東武士が包囲する中、海を渡り安房の仁右衛門島に逃れる。安房から再び武蔵国に入り坂東武士を糾合して父祖由来の地である鎌倉を本拠地とする。
 平家政権が京にあり、頼朝は京へ上って平家政権を打倒すると思われたが、坂東武士団を勢力基盤とする頼朝は鎌倉を離れず、源氏の氏神鶴岡八幡宮を祀ったのをはじめ、鎌倉整備と勢力地盤強化に邁進。京へは弟、範頼、義経らを派遣。以仁王の令旨に応じて、一足先に京へと侵攻した、同じく清和源氏の木曾義仲を破り(寿永2[1183]年)、続いて、文治元(1185)年の壇ノ浦の戦いで平家を族滅。
 坂東武士団を基盤として関東で独自の政権基盤を整備しつつあった頼朝は、後白河法皇に傾きつつあった義経の追放を決定。義経一派を追捕することを目的として、守護(※1)地頭(※2)を設置。義経を匿った奥州の覇者藤原氏の藤原泰衡に義経を殺害させるも、結局は奥州藤原氏を討伐、藤原3代の栄華を絶つ。その後、同じく弟の範頼を謀反の疑いありとして、伊豆修禅寺にて殺害。ここに坂東武士の拠るべき源氏の血統は頼朝唯一となる。
 明法家の力を借りて、鎌倉に独自の政権機構を樹立するための第一歩として、公文所・問注所(※3)などを設置。朝廷の拠る京に対しては、九条兼実を通じて牽制を図った。
 建久3(1192)年に征夷大将軍に任官。幕府は現在、法華堂跡と呼ばれる辺りに構えられた。


※1.守護は大犯三箇条という権限が付与された。大犯三箇条というのは、守護が持つ裁判(沙汰)権の範囲を示すもので、(1)謀反人、(2)殺人犯の逮捕、(3)大番役の御家人催促権のことを指す。そして、守護は大犯三箇条の場合に限って本所一円の地であっても、入部して追捕できるとされた。但し、鎌倉幕府によって認められた守護不入の特権を持つ地については、荘園の境界地で犯人の引渡しを受けるにとどまり、犯人は幕府の裁判所で裁判がなされた。
※2.地頭は荘園・国衙領の年貢徴収権と土地の管理、荘園での軽罪の裁判(断罪)権など治安の維持を目的として派遣された職。
※3.「諸人訴論対決の事、俊兼・盛時等を相具し、且つはこれを召し決し、且つはその詞を注せしめ、沙汰を申すべきの由、大夫屬入道善信に仰せらると。仍って御亭東面の廂二箇間を点じその所と為す。問注所と号し、額を打つと」『吾妻鏡』1184年10月20日条にある。