メキシコ革命で政権の座を追われることになるポルフィリオ・ディアス大統領は31年間もの間,権力を握っていた.その間,あらゆる権力は選ばれたごくわずかの人に集中,メキシコ国民には表現の自由も,実質的な選挙権もなかった.富に関しても大統領派周辺のごく少数の人々に集中,全土に不正が蔓延るという惨状を招く.このような政治的腐敗に対して,若い世代が立ち上がる.この動きは後の革命のいわば前哨戦ではあったが,立ち上がる時期が早すぎた.政治的腐敗を正し,新しいメキシコを夢見た若い世代の行動は,磐石な政治基盤を持つ保守的官僚によって脆くも打ち砕かれる.

しかし,若き世代は完全に諦めたわけではなかった.権力の中心にあったディアス自身がかつて公言していた完全に民主的な選挙に希望を抱いたのである.確かに,メキシコ憲法には公開選挙をはじめとする民主主義を明確に定めていた.にも関わらず,ディアスとその支持者たちは権力の座に固執し,その座を永久に自分の一派の手に納めるために,政治的,経済的な策略を巡らしていたのである.

このような状況下,フランシスコ・I・マデロは,ディアス大統領は権力を放棄すべきであり再選の道を探すべきではないとし,他の若い改革者らとともにマデロは「再選反対」同盟を結成.マデロはその後の大統領選挙でこの運動の代表に就任する.選挙期間中,マデロはメキシコ全国を遊説して回る.フランシスコ・I・マデロは,メキシコに民主主義政府を,そして文字通りの法治国家を誕生させることを夢見た.このようなマデロの活動が民衆の支持を集めてくるにつれて,彼はディアス大統領にとって排除すべき危険人物と見なされるようになる.

1910年の選挙直前,突然マデロはモンテレで政府当局の手によって逮捕されサン・ルイス・ポトシの牢獄に入れられる.その後,ディアスの再選を知ると,マデロは1910年10月にアメリカ合衆国に亡命.

この亡命生活中,選挙とディアス大統領を認めないとする「サン・ルイスの計画」を出版.「サン・ルイスの計画」は単なる出版物ではなく,いわば祖国の国民に対する声明文であり,この中において,自身を次の選挙が行われるまでの暫定の大統領であると宣言する内容であった.そして,マデロは農民に対して没収されたすべての土地を返し,全ての国民に選挙権を与えることおよび大統領の任期を1年に限ることを公約した.1910年11月20日のマデロのメキシコ国内へ向けたこの雄叫びこそメキシコ革命の強烈なる産声であった.


マデロ声明に呼応し,トリビオ・オルテガと少数の支持者たちは11月14日,チワワ州のクチーリョ・パラドで武装蜂起.メキシコ革命の幕開けとなる.しかし,プエブラでは18日,政府当局がマキシモ,アキレスのセルダン兄弟の叛乱を未然に察知し,この叛乱の芽を完全に摘み取ることに成功する.

一方,チワワ州では,フランシスコ・I・マデロの説得によって,パスクワル・オロスコとフランシスコ・ビシャという後に革命の柱となる人物が民衆の戦列に参加.この2人には軍事経験はなかったが,そのことは革命の成就にとっては何の問題にもならなかった.そして,勝利への途が着実に準備されていく.メキシコ北部を支配下においていた牧場主や地主の横暴に強い不満を抱いていた民衆が雪崩を打って次々と革命の渦の中に飛び込んできたのである.


革命の流れは一筋ではなかった.1911年3月,エミリアーノ・サパタがモレロスの農民たちを率いてもう1つの叛乱を起こす.この叛乱は自分たちの住む地域の土地と水の権利を主張するものであり,革命の大理論を振りかざすものではなかった.そして,この叛乱が発火点となって,メキシコ全土で民衆を巻き込んだ武装蜂起が勃発する.

マデロ率いる通称「マデリスタ」軍はディアス政権に対するこのような国民の怒りに後押しされ,半年でディアス政権率いる正規の軍隊を破る.「マデリスタ」軍のオロスコとビジャが,リオ・グランデ川をはさんで米国テキサス州エルパソの対岸にある都市シウダード・フアレスを攻め落としたことによって,メキシコ革命の勝利は決定的なものになった.その結果,ポルフィリオ・ディアスは大統領の座を追われてフランスに亡命,1915年に死亡した.

ディアス政権の崩壊を受けて,メキシコ議会はフランシスコ・レオン・デ・ラ・バラを暫定大統領に任命.続いて,全国的な普通選挙の実施.この選挙の結果,マデロが大統領に,そしてホセ・マリア・ピノ・スアレスが副大統領に選出される.