[甲州法度之次第]
 甲州の勇、武田信玄(法度制定時は晴信)が1547(天文16)年に制定した55ヵ条上下二巻からなる分国法。「甲州法度之次第」というのが正式名称だが、制定者に因んで「信玄家法」とも呼ばれる。また、式目を視野に入れて「甲州式目」、「甲州新式」とも言われる。
  この「「甲州法度之次第」には26ヵ条のものと55ヵ条のものが伝えられている。そのことを考えると、「甲州新式」というのは「甲州法度之次第」に追加された「新式」であるとみることも出来る。しかし、「新式」も26ヵ条であることが知られており、その場合には、「新」というのはやはり「式目」に対する「新」なのだという説がある。この説によると、55ヵ条版は「新式」ではなく「新式」自体への追加と言えるとされる。この55ヵ条は信玄在世中には存在したと考えられ、少なくとも子の勝頼の時にはすでに存在していたと考えられる。
 内容は、大別すれば(1)行政、(2)租税、(3)刑法、(4)私法、(5)訴訟法に大別することが出来る。
 (1)の行政に関しては、第1条で領内の地頭の恣意を抑制する条項を置いている。これにより領主の権限が明確になるとともに、武田家による甲斐国の直接支配が強調されていると言える。この理由から最初に掲げられたものと考えられる。2条は24条と同様に訴訟について規定した条文が置かれている。ここには、隣国今川家による「今川仮名目録」の規定とは異なり、訴訟時において暴力行為に及んだものは敗訴とする旨定めている。
 続いて、第3条と第4条では国外との通信の自由を制約し、内通の防止を図っている。
 その他には、17条では武家法における慣習法を受け継いで喧嘩両成敗を定めている。
 刑法規定に関しては、租税滞納、雇人逐電、悪党取り締まりなどに違反した場合の刑罰を規定。民法の領域に関しても、養子縁組や相続問題などを明文化している。当時の時代背景を反映して、浄土宗と日蓮宗の喧嘩禁止の条文がある。そして、この条文に違反した事例として、天文22(1553)年に千葉虎胤が法論に加わったことを咎められて平瀬城代を解任され追放処分を受け北条氏康のもとに走ったことが知られている。
 さらに、「甲州法度之次第」の特色として、「自分自身が法を犯した場合に責任を負う」旨の遵法文言も置いていることを挙げることが出来る。
 「甲州法度之次第」は「今川仮名目録」を範としたと伝えられているけれども、訴訟に関する規定と最後の遵法に関する文言は「今川仮名目録」に見られない独自性を出している。