『弘仁格式』

 「弘仁格式っていうのは、桓武帝が編纂を命じたものよね。特に、序文なんかは法典編纂の基礎資料として知られている。」
 「701年から819年までの1世紀以上にわたる間に公布された詔・勅・官符などや、別式・例・処分を集大成したものだね。とは言っても、ただ単に、それまでの法令を集めたというだけではなくて、臨時のものも集めたという取捨選択をしているという点では、一定の立法作用も見られる。それから、桓武帝の時代に着手したけど、完成したのは嵯峨帝の時代。」
 「平安時代に編纂された、いわゆる三代格式の最初の格式ね。残りは貞観格式と延喜格式。そういう意味では、この桓武帝から嵯峨帝にかけての時代から律令制のピークがくるっていう感じかな。」
 「いつがピークかっていうのは、ほら、いろいろな考え方があるからね。嵯峨帝から始まる親政3代あたりがピークになるのかな。でも、それを形作ったのは桓武帝といえるね。それから、目立たないけど、忘れてはいけないのが、桓武帝の父親の光仁帝。」
 「確かにね。」
 「ピークっていうのは、同時に衰退へのプレリュードだっていうのが定番だけど。」
 「定番なの?」
 「まぁ、まぁ。定番っていうことにしておいてよ。定番なの。この三代の始めの弘仁格式にもそれが当て嵌まる。律令っていうのは、特に刑法の部分は、平安時代の半ばから段々と庁例にとって変わられていくんだ。」
 「その庁例というのが、プレリュードね。」
 「そう。この庁例というのは検非違使庁の例にならうということなんだ。で、この検非違使っていうのは、そもそもが律令の枠の外の令外官でしょ。律令の下では十分に拷問に一定の歯止めを掛けたりとか、三審制が採用されていたりとか、それなりの配慮がなされていたわけ。」
 「でもよ、平安時代も半ばになってくると、地方では中央から下向した受領層と地方有力者層との間の深刻な利害対立が生じてくるのよね。それに、律令制の歪みが貧しい農民層にしわ寄せされて、そうした農民達が土地を離れて流浪するようになる。こうなると、治安が悪化してくる。」
 「さすがに、平安京の中では地方におけるような武力を伴った形での衝突はなかったけど、治安の悪化は確実に波及してきていたわけだよね。そうすると、生ぬるい捜査活動では庶民の支持を得ることが出来ない。というわけで、捜査と起訴と裁判まで出来るようになっていく検非違使というところが作られていくことになる。」
 「なるほど、その検非違使が三代格式の弘仁格式の作られた時代に既に登場していたということは、確かにピークは衰退へのプレリュードということになるわね。」
 「ちなみに、令外の官を挙げておくよ。

名称 設置年 天皇 内容
参議 702 文武
中納言 705 文武 大納言の下位に当たり、大納言の補佐を職分とする。
征夷大将軍 794 桓武 朝廷が蝦夷征討という有事の際に緊急に派遣する軍の司令官。後に、武家政権の幕府における長の職名となる。
勘解由使 797 桓武 国司交代時の不正を調査し監督する。国司は職を離れるに際して、新任の国司から不正がなかった旨の勘解由を貰い免責された。この勘解由の取り交わしを監視するために中央から派遣された司法官。
蔵人頭 810 嵯峨 薬子の乱(810年)に際して、嵯峨天皇が藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)に命じて秘密書類の保管、奏上と命令の取り次ぎなど重要な任務にあたらせたことに起源を持つ。天皇の機密文書を管理し、天皇への上奏・命令下達を担当した。蔵人には、その性質上、天皇の腹心の臣を任用。その役所を蔵人所、上級蔵人を蔵人頭(くろうどのとう)と呼んだ。蔵人が天皇の命を伝達するときには、宣旨(せんじ)という簡単な文書形式が用いられた。その意味で、律令の定める形式は固有法的に改められたといえる。
検非違使 816 嵯峨 はじめ衛門府の中の一部門。当初は京都の治安維持にあたったが、しだいに権限を拡大して訴訟・裁判を行うようになる。そして、天長元(824)年には検非違使庁として独立した。建前としては、治安維持のために、令制の欠陥を補うものとされたが、律令制の枠そのものを揺るがすことになる。
関白 884 光孝 あずかりもうすという意味が語源で、本来的には帝の補佐を職分とする。しかし、実際には、帝にかわって政治をするようになっていく。
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