[金閣寺(鹿苑寺)]

 金閣寺、一般にはそう言われていて、そういう名前で通っているけれども、正式には鹿苑寺。言わずと知れた室町幕府3代将軍の足利義満由来の臨済宗の寺院。
 金閣と呼ばれるのは舎利殿、つまり釈迦の骨を祀った建物だ。
 毎年、京都に逗留しているから、当然のように金閣寺に足を運んだ回数も多い。
最初に訪れたのは、中学校の修学旅行のときだったと記憶している。この修学旅行は多くの地方の人と同様に初めての京都だった。今は、そういうこともないのかもしれない。次に、金閣寺の境内に足を踏み入れたのが高校のときの同じ趣旨の旅行。この時は、小さな班に分かれて、テーマを設定し、そのテーマに沿ってコースを自分達で考えるというものだった。大学は文学部へ行こうと密かに考えていたので、その時は京の文学をテーマに選んだ。他には意見が無かったことが幸いして、このテーマで「私」がコースを設定した。 文学がテーマであるから、誰もがこのテーマで思い浮かべる「金閣寺」は当然のようにコースに組み込んだ。その他には、哲学の道とか大原などもコースに入れた。これも、また、当然と言えば当然だ。当然ではなかったのは、羅城門跡を入れたことだろうか。ここは、探すのに苦労したということを覚えている。
 それからも度々訪れている。何を隠そう、JRの京都クラブの会員にもなっていた。
 そういうわけだから、金閣寺と思い浮かべただけで、自分の来た道というものを走馬灯のように思い浮かべる。
 さて、この金閣寺はもともとは琵琶で名高い西園寺家の公経の山荘だったものを義満が譲受けて造営したのが始まり。応永4(1397)年のことという。いわゆる北山文化の象徴としてつとに知られているように、庭園・建築は極楽浄土を模して造り込まれており、この場所を中心として当時の文化が花開いた。義満が譲受ける前の西園寺公経の山荘だったころから付近一帯は平安時代からの貴族の行楽地だったといい、金閣寺はその既存の文化の地に一層の華を添えたと言える。
 足利義持は義満の遺言に従って、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿をとって鹿苑寺とする。
 三島由紀夫の小説にあるように、金閣寺は昭和25年に一人の学僧により放火され全焼し、その5年後に再建された。

京都市北区金閣寺町