『 憲法十七条 』 

 「言わずと知れた日本最初の成文法典。聖徳太子が国家と君、臣民の理想を示すために行った改革の第二段として制定されたものだね。第一弾は冠位十二階の制定。」
 「聖徳太子っていう名前も尊称であるとされているけど、その聖徳太子が制定したとされる『憲法17条』というのも最初からこの名称で制定されたとは考えられていないわね。この『憲法17条』は820年の『弘仁格式』には「国家制法」として言及されている。
 ともあれ、構成は「君」「臣」「民」という形を取っているわ。」
 「一番有名なのは、第1条の『和を以て貴しとなす』だね。それ以外には、第3条の『詔を承りては必ず謹め』とか第8条の『早く朝りて晏く退でよ』とか。総じて道徳的な内容だね。理想像を示したのだから当たり前かな。」
 「この『憲法17条』自体が実は存在しなかったんだというような偽法典説もあるのは確かだけど、存在していたんだと考える人の方が多いわね。さらに、この法典は後の時代の日本の法典編纂に少なからぬ影響を与えているわ。例えば、時代は下って『御成敗式目』などは条文の数を『憲法17条』の3倍にしているわね。」

制度の確立
聖徳太子(厩戸皇子)の住まいだった斑鳩宮は現在の聖徳宗法隆寺の夢殿にあったとされる。旧法隆寺は、太子一族が蘇我氏によって滅亡に追いやられた際に焼失した。しかし、太子所縁の品は今にも伝えられている。
太子は高句麗(37-668)の僧である慧慈との交流によって、その政治的思想を開花させた。日本最古の温泉の一つとして知られる松山の道後温泉には、その太子と慧慈に纏わる言い伝えがある(法興6[596]年)。
太子が、このように高句麗の僧、慧慈を師として仰いだことは、高句麗の情報が伝わるという利点をもたらした。
西暦600年に、太子は初めて遣隋使を派遣する。しかし、中国大陸に君臨する世界帝国隋(581-618)は東方の弱小島国の日本が派遣した使節を門前払いとした。このことは日本側の記録にはないが、太子が大きな屈辱感を味わったことは想像に難くない。その時から第二回の遣隋使派遣(604年)までの間に冠位十二階、憲法17条の制定を行った他、飛鳥寺に四天王寺といった寺院を建立する。
その上で、日出る国...という書簡を送る。時の皇帝煬帝(楊堅[文帝]の子、第2代)は一旦は激怒したとされるも、日本が高句麗と連絡をとっていたことから、北辺からの軍事的圧迫を回避するため日本との国交を決意するに至る。隋は、それまでの五胡十六国時代(316-439)、南北朝時代(六朝期[222-589]、呉、東晋、宋、斉、梁、陳)で分裂していた中国大陸を統一したとはいえ、体制は磐石なものではなかった。
当時、日本が高句麗とどの程度の政治的関係を結んでいたのかは定かではない。しかし、太子が海外との交流を重視して、当時海外との玄関口だった瀬戸内に自身の領地を確保、拡大させていたことは確かなようだ。その証拠の一つは兵庫県太子町の斑鳩寺。この寺は平安期には法隆寺の荘園として隆盛を極めた。この寺の周囲は、その名の示す通り、太子の地であり太子の子孫の支配した地であるという。太子が自身の領地の境界線を定めたという「投げ石」が現存している。
隋の皇帝、煬帝は返礼使を日本に送る。この使節団は、四天王寺に赴き次いで飛鳥寺に案内された。現在の飛鳥寺はその後の歴史の流れに翻弄されて規模が小さくなったが、創建当時つまり隋の使節団が訪れた時には現在の規模の約20倍もあったという。使節団は、その荘厳なる規模に驚き、また日本最古とされる大仏に畏怖したことだろう。残念ながら、この大仏像は戦国の戦火によって頭上半分と指三本のみに当時の姿を留めているという。
この隋の使節団は日本という国家にとっての幕開けをも象徴していた。それまでにも日本列島には多くの大陸の人々が渡って来ていたが、日本が国家としての形を整えようとしている時期に日本が外国の空気に触れる機会が設けられたということは非常に意味があったといえよう。そのことは、現在でも、四天王寺で続く「ワッソ」と呼ばれる使節団を迎えた当時を再現する祭りが営々と繰り返されていることからも伺える。
また、この時期に各種の物産が日本にもたらされる。猫もこの時期という。日本の尻尾の折れ曲がった猫の源流もここにあるということになろう。また、冬の鍋物には欠かせない白菜もこの時期に隋からもたらされたとされている。