米国連邦準備制度理事会の起源は1913年にまで遡る.しかし,実はそれ以前においても,米国では同様の制度があった.連邦の金融政策を担う中央銀行制度は,初代財務長官ハミルトン[Alexander Hamilton(1755-1804)]によって,1790年に設立されている(合衆国銀行[the Bank of America]という名称だった).

但し,その存続期間はたったの20年であった.そして,反連邦主義によってこの中央銀行制度は更新されることなく,1811年にその幕を閉じることになったのである.

しかし,1812年戦争を契機として1816年に再び中央銀行が設立される.この中央銀行は中央銀行とは言っても,その総資産3,500万ドルのうち連邦政府は700万ドルしか所有していない"民間"銀行であった.そして,この中央銀行も最初の中央銀行と全く同じ運命を辿ることになる.丁度20年後に解散するのである.ジャクソン大統領[Andrew Jackson]によって,有名な言葉"The Bank is trying to kill me - but I will kill it!"と共に葬り去られたのだ.

その後,しばらくは州法によって設立された銀行中心の時代となる.

再び,中央銀行設立の機運が高まるのは南北戦争期である.この戦争のための資金調達を目的として,グリーンバック紙幣が連邦内に広く普及した.

こうした事実を背景として,いわゆる"国立銀行"制度が発足する(明治政府がこれに倣って制度を導入している).ここでいう国立というのはNationalの訳であって,本来の意味における政府が出資する銀行という意味ではない.この制度のもとで,設立された銀行は,資本金の1/3を連邦通貨預託局に預託することや,払込資本金が当該銀行の銀行券の発行高の上限として定められていることなどの制約が課されていた.これは,州法による銀行時代の乱脈経営(ニューヨーク自由銀行法のもとでの多数の山猫銀行の出現!)の教訓である.とはいえ,この制度は連邦における統一された銀行制度を生み出したわけではなかった.

国立銀行制度は,1907年の銀行恐慌によって大きな転機を迎えることになる.翌1908年にはthe National Monetary Commissionが設立され,銀行制度改革が開始されるのである.こうした動きを受けて,1912年ウィルソン大統領[Woodrow Wilson]が選出され,同時に連邦議会上下両院において民主党が多数派を占めた翌年に,連邦準備制度法が可決されるのである.