[足利家の家法]

 各領主・国主が自分の支配する領地にたいして施行する分国法は戦国時代のものが有名といえる。しかし、固有法の一つの成熟が見られた鎌倉時代においても、いわゆる分国法に相当するものとして、豊後国大友氏の「新御成敗状」や下野国宇都宮氏の「宇都宮家弘安式条」などがあったことも知られている。
 そうすると、後に京都に室町幕府を樹立する(1336年)ことになる関東の足利家にも大友家や宇都宮家と同様に家法があったのではないか考えるのは当然といえよう。この点については、残念ながら現在の時点では、これが足利家の家法だ、というような纏まった法令集は見つかってはいない。
 ただ、足利家の中に「身内侍所」、「御内引付頭人」というような、いわば得宗家における「御内侍所」、「得宗方」という訴訟機関に類似した機関が存在したということは指摘されている。
 また、「松雲公(前田家第5代綱紀)採集遺編類纂」所収長伝書写にある元亨2(1322)年5月23日付足利貞氏裁許状写などによると、足利家の訴訟法は訴人(原告)と論人(被告)間で三問三答の訴状・陳状の交換をもって書面審査を行うことから始まる。次に、「勘録の座」において、訴人と論人による口頭弁論を開いた上で判決を下すという手順を踏んだようである。
 これによって、足利家の訴訟機関と鎌倉幕府を支配した北条得宗家の訴訟機関の名称の類似性と同様に足利家の訴訟手続と幕府の「引付制度」という訴訟制度が似たものであったことが言える。