[ 朝倉孝景(敏景) ] 正長元(1428)年〜文明13(1481)年

 当時としては革新的・合理的とも言える人材登用方法・家臣団の城下集住などを規定した条項を含む「朝倉敏景十七箇条(朝倉英林壁書)」の制定者として知られる。
 
 曾孫にあたる一乗谷第4代当主宗淳孝景と同じ名前なので区別して、法名を添えて英林孝景とも呼ばれる。
 子の氏景に示したと言われる『朝倉敏景十七箇条』を作ったのが、この英林孝景である。
 朝倉氏は但馬の豪族だったが、足利尊氏の丹波篠山挙兵に際して、足利方の斯波高経の傘下に入り、斯波氏の越前領知に伴って本貫の地である但馬国朝来郡・養父郡を離れ越前に根を下ろした。
 孝景はその初代から数えて7代に当たる。
 越前国は斯波氏が守護を務める国であったが、やがて斯波氏配下の府中守護所を本拠地とする守護代甲斐氏が越前国で勢力を誇るようになる。
 守護斯波義敏と守護代・甲斐常治は康正2(1456)年に不和となるが、長禄2(1458)年には将軍義政の斡旋で斯波義敏と甲斐常治が一旦は和解。
 しかし、長禄元(1457)年、斯波義敏は、越前国人・堀江利真に甲斐氏と甲斐氏に組する朝倉氏を攻撃させ、ここに長禄合戦が幕を開ける。
 斯波義敏の思惑とは裏腹にこの戦いは守護代甲斐常治の勝利に終わり、ここに甲斐氏の越前支配が確立するに至る。
 この甲斐=朝倉体制による越前支配も長くは続かない。
越前を手中に収めた甲斐常治が没し越前の戦乱は終息するが、斯波義敏がかつて両者の和解を斡旋した義政の勘気を被り斯波氏家督を奪われる。これは、斯波義敏が和解を無視して堀江に甲斐を攻めさせたことを義政が知ったことによる。
 ここに、応仁の乱の一つの種が蒔かれることになる。
 その応仁の乱に西軍として参戦した朝倉孝景は越前での支配基盤を固めるために越前に帰国する。加えて、越前守護職を条件として東軍に寝返り甲斐氏に弓矢を向け、遂には文明7(1475)年に甲斐氏の勢力を排除して越前全域に支配権を確立する。
 文明11(1467)年には、越前の支配を失った旧敵同士が手を組み、斯波氏=甲斐氏連合軍が朝倉氏が支配する越前に侵攻し激烈なる戦いを繰り広げる。
 この戦いの最中に、越前の完全支配を目にすることなく朝倉孝景は没するものの、結局は朝倉氏が勝利し越前の完全支配を確立する。