[上田城]
 「上田城といえば、それほど大きくないわよね。でも、南面は千曲川の支流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川とを巧みに配していて、周囲一帯を極めて堅固な防御陣地としていることで知られているわ」
 「天正11年(1583)に真田昌幸によって築城された平城だよね。小さいというか大きくはないといっても、2回もの戦乱を経験しているよね」
 「天正13年(1585)と慶長5年(1600)の2回ね」
 「でも、残念ながら、その当時の上田城は、関が原の合戦後に徹底的に破却されてしまっているね。今、見ることが出来る上田城は、寛永3〜5年(1626〜28)にかけて仙石忠政によって新たに築きなおされたもの」

 「家康より4代前の長親の五男利長をその祖とする、三河国碧海藤井(愛知県安城市)を本拠とした藤井松平家(十四松平家)の前の藩主ね」
 「仙石家は仙石忠政が小諸から上田へ入封して忠政、政俊、政明と3代続いたけど、 1706年に兵庫県出石へ移封しているからね。その出石から移ってきたのが藤井松平家なわけだ」
 「上田を統治した藤井松平家の初代は忠晴公って言って、丹波笹山7万石を治めていた信吉公の次男ね。信吉公の父親の信一公はその父親の利長公を永禄3年(1560)に戦で失っているけど、関東入部のおりに下聡布川5千石を宛がわれているの。それだけじゃなくて、関ヶ原合戦の功績によって常陸土浦3万5千石を宛がわれているわ」
 「そして息子の信吉公は、元和3年(1617)上野高崎5万石へ加増転封。それから元和5年に丹波笹山へ転封されると同時に、次男の忠晴が分家独立して常陸 2千石を拝領するわけだ」
 「で、その藤井松平家の忠周(老中)、忠愛、忠順、忠済、忠学、忠優(老中)、忠礼と7代にわたり、 1706年より幕末まで166年間上田を治めたわけ」
 「忠周と忠優は老中にもなっているね。松平家の統治した期間が長いけど、上田というと、どうしても真田家をイメージするなぁ」
 「ちなみに、藤井松平の本家筋はどうなったか知ってる?」
 「出羽上山2万7千石?」
 「それは、5代目の信之公の分家筋。本家は丹波篠山の後が良くなかったみたい。元禄6年11月25日に6代目の松平日向守忠之公が発狂、弟信通公が家を継ぎ下総古河8万石から備中庭瀬3万石に減封されてしまっているの。『徳川実紀』に『失心(正気を失うこと)し、あらぬふるまひするにより』とあるけど、将軍綱吉による生類憐令を無視する行いをしたみたい。このあたりは、松平忠之宛同忠周書状(元禄5年(1692)5月23日 )に記されているわ」