津軽為信(1550[天文19]-1607[慶長12])
津軽藩の藩祖。堀越城主武田守信の子。南部家の家老、大浦城主大浦為則の娘阿保良(戌姫)の婿養子となり勢力を拡大。武田家が大浦家を継承した経緯については幾つかの異説が伝えられている。
南部家の支族である九戸九戸政実が本家に謀反した際に、謀反に乗じて津軽地方で挙兵。
九戸政実と出羽の最上義光とはかねてから連絡があったがための行動と言える。
津軽地方の要であった大仏ケ鼻の石川城に、南部第26代信直の父石川高信を攻め落とす(元亀2年)。
『津軽一統志』によると、天正3年には大光寺城滝本重行、6年に浪岡城北畠顕村、13年油川城奥瀬善九郎および田舎館城千徳政武、16年に飯詰高楯城朝日左衛門尉を攻略し津軽一帯を平定。
名目上は南部家の配下にあるも、南部家とは別に豊臣秀吉に接近。小田原攻めに参陣した功によって1590(天正18)年に秀吉から、平賀、鼻和、田舎の津軽3郡3万石を安堵され、正式に南部家から独立した。
関ヶ原の戦いには自身は徳川軍に加わったが、長男信健は西軍に走らせた。



参考文献:『津軽系図』、『弘前市史』、『青森県百科事典』