蘇我家
蘇我一族は武内宿禰の子、蘇我石河宿禰を祖先として仰ぐ一族。
この蘇我氏に関しては渡来系の一族ではないかとされている。これは、蘇我氏の系譜にある蘇我韓子の韓は加羅を意味し、蘇我高麗の高麗も朝鮮半島の名称であるということからの類推。そう考えると、応神朝に百済より来日した木満致という人物が蘇我満智と名乗ったことから蘇我氏の歴史が始まるという説も一考に値すると言える。
蘇我氏は物部氏と派遣を争ったことで知られている。
物部氏は継体帝を擁立し権力の座を確固たるものにしたが、新帝擁立には蘇我氏も物部氏とともに行動している。
そもそも、蘇我氏は応神王朝を支えていた葛城氏に代わって台頭してきた。雄略帝は外戚である葛城氏の影響を取り除き大王独裁制を敷くために葛城陣営の目弱王、葛城円大臣、市辺忍歯王を討伐している。その討伐に加わったのが蘇我一族。
時代は下って、継体帝亡き後の後継者争いでは、軍事部族物部氏とともにもう一つの軍事部族大伴氏を下し、安閑・宣化帝から皇統を奪い欽明帝を擁立している。
蘇我一族が物部一族と共闘関係を良好に築けたのは、この辺りまでであると言える。大伴氏を葬ったことで、蘇我稲目が大臣の位階を授かると、大連の位階を授かり権力を手中にしていた物部一族と並び立つことになる。
両雄は並び立たずである。
蘇我稲目は、かつて蘇我氏が台頭の契機とした葛城氏と同様に欽明帝のもとに堅塩媛、小姉君を送り込み外戚化を図る。この外戚政策は功を奏し、用明帝、崇峻帝、推古帝を相次いで生み出すことになる。
この点は、物部氏も外戚化を図るべく努力したが、物部氏の場合は不幸にも努力が実ることはなかった。
蘇我氏と物部氏の対立は、仏教を受容するか否かという争点を以って表面化していく。しかし、根底にあるのは、仏教か日本古来の神道を守るかということではなくて、あくまでも蘇我氏と物部氏との主導権争い。
対立は、用明帝が亡くなるとその後継争いという色彩も加えて一気に決戦へと雪崩れ込む。当時、用明帝と小姉君との間に穴穂部皇子と泊瀬部大王という後継有力と見なされていた皇子がいた。穴穂部皇子と泊瀬部大王はどちらも蘇我稲目の娘である小姉君の子であり、どちらも蘇我一族の血を引いている。ところが、小姉君の母親はどうやら物部の血を引いていたらしいとされている。その関係で両皇子ともに物部の影響下で養育されたと見られるのである。つまり、両皇子には蘇我の血と物部の影響力の両方が備わっていた。そこで、物部守屋は用明帝の異母異母兄弟であり、堅塩媛の血を引いた用明帝の後継として、穴穂部皇子を担ぐ。この時代においては相続形態として兄弟相続が一般的と言っても良いから、穴穂部皇子を担ぐという戦略は間違ってはいない。
その裏をかいたのが蘇我馬子。彼は同じく兄弟である泊瀬部皇子を対抗馬とする。その上で用明帝の同母妹の豊御食炊屋姫を巻き込んで、物部氏に次ぐ軍事部族である佐伯連、土持連によって物部守屋の擁立している穴穂部皇子を討伐。
ここに至って、物部一族の持つカードは無くなり、いよいよ物部と蘇我の直接対決となる。
結果は蘇我氏の勝利に終わったものの、蘇我氏の天下も決して長くはなかった。
蘇我氏は泊瀬部皇子を崇峻帝として即位させたものの、大王家にとって代わろうとする野心もあって、蘇我氏に仕える東漢氏を使って崇峻帝を手にかける。
しかし、蘇我氏が大王家にとって代わろうとする野望は大化の改新によって潰えることになる。