清和源氏
 源氏というと諸流あるけれども、第56代清和帝の孫にあたる経基王が源姓を賜姓されたことに始まる清和源氏は、日本史上特に活躍の目覚しい一統ということが出来る。
 但し、これは巷間伝えられたことであり、実際は経基王は、河内守頼信告文案によって陽成帝の子である元平親王の子であり、六孫王とも名乗らなかったという(星野恒「六孫王ハ清和源氏ニ非ラザルノ考」『史学雑誌』、竹内理三『平安遺文』640号)。ということは正確には清和源氏は陽成源氏ということになるが陽成帝は性格に難があったことで知られる為、子孫が家祖を清和帝に求めたとされている。
 ともあれ、その経基王の子の満仲が攝津多田に本拠を構えて、後の武家の棟梁たる系譜の基礎を築いたのに始め、満政、満快などもそれぞれ各地方に勢力の種を蒔いた。
 満仲の長男である頼光は満仲の故地を守るとともに摂関家との密接な関係を構築し、やがて美濃守護となる土岐氏へと繋がっていく。
 後に日本で最初の武家政権を鎌倉に樹立する源 頼朝(鎌倉殿)の祖先は満仲の三男の頼信。頼信は河内国石川郷を本拠地として河内源氏の祖となった。頼信の子、頼義もその子の八幡太郎義家も河内を本拠地とした。現在でも大阪府羽曳野市に、これら河内源氏3代の墓が残されている。河内源氏の祖となった頼信は坂東の地で起こった平 忠常の乱(長元元[1028]年)を平定。ここに、長らく桓武平氏の地盤とされてきた坂東の地への清和源氏の橋頭堡を築く。さらに、子の頼義、孫の義家が前九年の役、後三年の役で活躍したことで坂東の地は清和源氏にとって所縁のある地へとなっていく。このことが、やがて源 頼朝が鎌倉に幕府を築くことの一つの要因になったとも考えられる。また、義家の弟の義光は自身は三井寺に住み、園城寺新羅大明神において元服したことを以って新羅三郎と名乗ったが、長男の義業が相模権介、進士判官となり基礎を堅め、やがて常陸介として常陸久慈郡佐竹庄にその子である相模三郎昌義とともに土着する。この相模三郎昌義が佐竹氏の祖。
 また、新羅三郎義光の三男刑部三郎義清は甲斐国市川荘に配流され逸見郷に土着し逸見氏の祖となっている。その子の悪源太清光の嫡男光長は父祖の地である逸見を所領し、次男の信義(なお、光長と信義は双生児)は甲斐国北巨摩郡武田村を所領とし、それぞれ逸見氏と武田氏の祖となっている。
 清和源氏満季流