里見氏_清和源氏新田氏流

 戦国大名里見氏は新田義重の子義俊を祖とする一族。源頼朝の側近として近侍するも庶家分立によって大きな影響力を失っていった。
 鎌倉幕府倒幕の折は本宗家に当たる新田義貞に従った。しかし、既にまとまりを欠いていた里見一族はやがて一族内部で南北に分かれて刃を交える。
 その後の里見氏の歴史も芳しくはない。常陸小原城主の里見家基は永享の乱に関東公方持氏軍に参加し敗北。敗者復活を賭けた結城合戦でも敗れる。
 その子である義実が安房国を平定したとされる。つまり、義実が戦国大名里見氏の直接の祖ということになる。但し、その前後の経緯に関しては不明なところも数多い。そもそも、里見義実は関東里見氏の系譜に連なるものではなく幕臣である美濃里見氏(関東里見氏とは同族)であるとする考え方の呈示されているし、その子成義に至っては存在が疑問視されている。
 ともあれ、戦国大名である安房の里見氏の祖は義実ということだけは確か。その跡を継いだのが義通ということになる(間に成義が入る)。その義通が亡くなった時に子の義豊が若年だったために家督は一旦、実尭に渡る。言わずもがな、ここに争いの種が蒔かれたのである。やがて、義豊は実尭と家督を巡って争いとなる。実尭は正木氏と結ぶが、稲村城にて義豊に殺害される。ここで争いは終わらず、実尭の子の義尭が義豊に叛旗を翻す。戦いに勝ったのは義尭であり、本来は嫡流である義豊の子家宗は越後に落ちていく(越後里見氏)。
 義尭は久留里城を本拠として安房に覇を唱える。義尭とその子義弘の2代が戦国大名里見氏の全盛期だったといえるだろう。とは言っても義弘は永禄7(1564)年に国府台の戦いで北条氏に破れ、これが衰退の契機となっていく。義弘がこの世を去ると、里見氏は再び嫡流争いを繰り広げる。今度は義頼(義弘実弟にして養子)と義弘の子梅王丸との争いである。
 この戦いには義頼が勝利するも、忠義の代には妻の祖父大久保忠隣の改易に連座。伯耆倉吉3万石転封を経て、結局は百人扶持にまでに落ちぶれた。
 ここに、戦国大名里見氏は事実上滅んだと言って良い。元和8(1623)年、忠義の死去とともに里見氏は名実ともに姿を消す。
 しかし、嗣子のいなかったとされる忠義には利輝(称豊後)、貞倶(母は山下休三女)、そして義次(母は広部高次女)がいたと伝えられる。利輝の子孫は上州高崎藩主間部詮房に仕官し家老職に、貞倶は御家人となったという。

[参考]滝川恒昭氏『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』