大河内氏_正勝家_旗本
 大河内家は初代忠正が駿河今川家を振り出しに、甲斐武田信玄、勝頼を経て徳川家康に仕えて以来の旗本家。天正18(1590)年に正勝が三ツ木村に250石の知行を得た。地頭大河内氏というが、これは知行地を持つ旗本という意味。大河内氏は当初は長円寺にあって周囲を支配した。大河内氏は3代忠次の代に寛永10(1633)年に大番として下総海上郡西洗村(千葉県旭市)に200石を加増、さらに忠次は大番組頭にまで進んだ。4代忠勝の代には下総匝瑳郡久方村、八日市場村、横須賀村を知行し高は750石となった。忠勝は三ツ木村の蔵屋敷を名主久兵衛に下賜していることが記録にあることから、元禄年間頃には大河内氏は三ツ木を離れ江戸市中に移ったと考えられる。しかし、幕末に至るまで大河内氏は三ツ木を知行し三ツ木から奉公人を雇い続けている。このように江戸市中に生活の拠点を移した大河内氏であったが長円寺は菩提寺として初代から8代までの位牌を祀っている。



左=忠次の墓、右=忠政の墓