二条家

二条家は九条家からの分家。藤原兼実のひ孫の良実を家祖とする。家名は二条良実の邸宅が二条富小路にあったことに由来。二条良実の弟は鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経。良実の父の道家は良実の弟の一条実経を重んじ、1246(寛元4)年には関白職を実経に譲らざるを得なくなる。

同年、将軍藤原頼経が名越光時に擁立されて鎌倉幕府第5代執権北条時頼に叛旗を翻す。乱は鎮圧され頼経は時頼によって京都へ送還、名越光時らは伊豆国江間郷に配流となった。この乱よって、将軍藤原頼経の父である道家は連座して朝廷を追放。実経も関白職を剥奪。二条良実は父との関係が疎遠であったことで鎌倉幕府からは処罰を受けなかった。これを鎌倉幕府への内通と考えた道家は二条良実を義絶。

二条良実が復権するのは父・道家の死後のこととなる。

鎌倉時代末期には、後醍醐天皇による倒幕運動である元弘の乱に与した疑いを関白二条道平が受け鎌倉幕府の命令によって父の兼基の下に預けられた。息子の良基も権中納言を罷免。二条家は廃絶に追い込まれた。1333(元弘3)年に後醍醐天皇が隠岐島を脱出し鎌倉幕府を倒幕に追い込むと藤原氏長者に任じられ復権。

1335(建武2)年に道平が急逝。翌年には後醍醐天皇が足利尊氏に追われて京を脱し吉野に南朝を打ち立てる。権大納言であった二条良基は曽祖父の師忠とともに京に残留。北朝の光明天皇に仕えた。一方、叔父の師基は後醍醐天皇方に与したため、二条家は分裂し再び危機に見舞われる。

良基は光明天皇の関白・藤氏長者に任ぜられ家勢を復活。ところが、室町幕府内の足利直義派と高師直派が対立し観応の擾乱が勃発。高一族が足利直義派によって滅亡すると、対立は足利尊氏派と直義派の兄弟対立となる。一発触発の中、尊氏派である佐々木導誉と赤松則祐が尊氏から離反し南朝に付いたと偽装。尊氏・義詮親子は近江と播磨に討伐のためと称して出兵。京にいる直義を挟撃する構えをとる。これに対して、直義は桃井氏、斯波氏、山名氏を伴って京を脱出し自派の勢力圏内である北陸、信濃へと落ち延びた。

足利尊氏は弟の直義からの反撃に備えて、南朝との和議を行う(正平一統)。これによって、北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃位。当然に、関白二条良基も更迭された。南朝からの攻撃の心配が無くなるや、足利尊氏は、1352(観応3)年、直義を鎌倉へと追い込み降伏させる。

一方、南朝軍は足利尊氏の征夷大将軍を解任。代わって、宗良親王を征夷大将軍とした。更に、北畠親房が楠木正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏を引きいて京に進軍。義詮を近江に駆逐。北朝の光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王を賀名生に拉致。代わって、後村上天皇が賀名生から男山八幡に進出するなど快進撃を遂げた。これに対して、義詮は佐々木道誉、細川顕氏、土岐頼康、赤松氏らを動員して男山八幡を包囲。後村上天皇は2ヶ月に及ぶ兵糧攻めに耐えた末に脱出。

鎌倉から京へお戻った尊氏は4ヶ月にわたった正平一統の終焉を宣言する。しかし、京には治天の君も天皇も不在となっていた。そのため、元関白の二条良基と勧修寺経顕は足利尊氏と相談の上、光厳・光明の生母広義門院を治天の君に据え、崇光上皇の弟・弥仁を後光厳天皇として即位させた。

摂関家の中では最も武家政権に近しく、足利将軍家および徳川将軍家から代々偏諱を受けた。