徳川家累代墓所

群馬県は世良田郷の長楽寺にある古墳の上に造営されている墓所。

長楽寺は新田義重の子・得川四郎義孝が開基となっている。得川四郎義孝の子孫が親氏であり、上野国世良田郷を後にして三河に至り、在原信重の婿となり松平氏の祖となった。

その子孫から家康が出て松平姓を改めて祖先の徳川の姓に戻った。従って、この世良田は江戸幕府将軍家の故郷ということになる。

ちなみに、新田義重の父親は源義国であり、弟は足利氏の祖である義康。新田義重の惣領職を承継したのは義兼、そして、その子の政義。

しかし、政義は1244(寛元2)年に鎌倉幕府への不満を募らせ、遂には京都にて無断で出家してしまう。

そのために新田氏の所領は没収され、一族の得川四郎義季の嫡子の世良田頼氏と同じく同族の岩松時兼が新田氏の惣領職を継いだ。

ところが、その世良田頼氏も1272(文永9)年に、鎌倉幕府執権の北条時宗が謀反を企てた異母兄北条時輔を討伐した二月騒動に連座し佐渡に流罪となる。

ここで、新田氏の惣領の座は、新田政義の孫の新田基氏に戻る。この新田基氏の孫が鎌倉幕府の倒幕に立ち上がった新田義貞である。

新田一族は義貞の代には足利一族とは対照的に一御家人にまで没落していた。