清和源氏

源氏には二十一流があり氏長者は村上源氏が務めたが、武家としては源氏と言えば清和源氏。清和源氏は873(貞観15)年に清和天皇と賀茂氏との間に生まれた長猷、戴子、同じく大野氏との間に生まれた長淵、佐伯氏との間に生まれた長?に源朝臣を賜姓したのが始まり。これらの源氏賜姓者は後に名を為さなかった。武門源氏の祖となったのは第六皇子貞明親王の子の六孫王経基の系統。六孫王経基は平将門の乱、藤原純友の乱に際して派遣されている。但し、六孫王経基は貞明親王の子ではなく陽成天皇となった貞明皇子の皇子・元平親王という説もある。

経基の子の満仲は969(安和2)年に勃発した安和の変で醍醐源氏の左大臣源高明を告発して失脚させた人物。満仲は藤原摂関家に仕え武蔵国、摂津国、越後国の受領を歴任。摂津国多田を本拠として一族を摂津源氏、大和源氏、河内源氏として繁茂させた。

満仲の三男の頼信は平忠常の乱を平定し、鎌倉を本拠地としていた平直方の娘婿となって鎌倉の地を得た。

頼信の孫の義家が後三年の役で活躍したことによって清和源氏の発展の基礎が築かれた。義家の子の義親流の直系である頼朝は鎌倉幕府を樹立し鎌倉将軍家となった。しかし、実朝の代に至って断絶。義親の弟の義国の流れから出た新田氏と足利氏は清和源氏の中で最大の流派を為すに至る。特に足利氏は尊氏の代に室町幕府を樹立し室町将軍家となった。また、江戸幕府を開いた徳川家は新田氏の流れを汲むとしている。

源経基

源経基(-961)は清和天皇の第6皇子で上総常陸太守の貞純親王と源能有の娘である源柄子の間に産まれたことになっているが、実は清和天皇の子の陽成天皇の子の元平親王と源柄子との間の子だとされる。陽成天皇は嵯峨天皇の孫・源蔭の子の源益が宮中で殴殺された事件に関与したとされ、摂政藤原基経によって退位させられた人物として知られている。

陽成天皇の子孫は暴君とも言われた父祖の子孫と名乗るのではなく、一代遡って清和天皇の子孫であると名乗ったのだとされている。

938(承平8)年に武蔵介として武蔵国に下向。伊予親王の玄孫に当たる武蔵権守の興世王(-940)とともに、慣例に反して着任すると直ちに年貢・租税徴収のための土地調査である検注を実施します。これに武蔵国の豪族である足立郡司の武蔵武芝が猛反発。源経基と興世王の政治的圧力に対して武蔵武芝は平将門(-940)に調停を依頼。

興世王と武蔵武芝は和解。一方、経基王は平将門の調停を受け入れずを武蔵武芝の軍勢に包囲され武蔵国を去ることを余儀なくされた。

源満仲

源経基と橘繁古あるいは武蔵守藤原敏有との間の子。

村上天皇・冷泉天皇・円融天皇・花山天皇・一条天皇に仕え、鎮守府将軍の他、武蔵守、摂津守、越前守、美濃守、信濃守、陸奥守などを歴任。

源氏諸流


土岐
土岐氏は美濃源氏の名門。本能寺の変で織田信長を斃した明智光秀も土岐氏の流れを汲む。

木曾
笹竜胆は村上源氏の代表的な家紋。村上源氏は堀川氏、土御門氏、中院氏、六条氏、千種氏、北畠氏などを輩出している。清和源氏でも鎌倉将軍家の家紋であり、戦国時代の木曾氏も笹竜胆を家紋とした。

里見
安房の戦国大名である里見氏は新田一族の名門。新田義重の庶長子であり、上野国碓氷郡里見郷を本拠とした新田義俊が里見を名乗ったのが始まり。足利持氏の奉公衆であった里見家基の子・義実が足利成氏に従って享徳の乱時に上杉支配下の安房国入り山下定兼を討伐、丸氏・東条氏をも従えて戦国大名化していった。

山名
山名氏も新田一族の名門。新田義重の庶子で上野多胡郡八幡荘山名郷を領した三郎義範が山名を称したのが始まり。鎌倉時代には新田一族の中でも早くから源頼朝に帰属し頼朝から源氏門葉に列せられた。また、室町時代には、赤松氏、京極氏、一色氏と並んで四職家に列した。山名持豊(宗全)は嘉吉の乱で6代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐を討伐した戦功によって備後・安芸・石見・備前・美作・播磨の守護に任ぜられた。

徳川
徳川氏は清和源氏新田氏の支流得川氏の末裔を称している。徳川家康の祖父で三河松平氏の第7代当主である松平清康の時代には既に得川氏の庶流・世良田姓を称し世良田次郎三郎と名乗っていた。これは松平氏が領した三河国加茂郡(松平郷)に多くの新田一族が土着していたことと無関係ではない。

細川
細川氏は足利氏第3代当主の義氏が三河守護に任ぜられ三河国額田郡細川郷を本拠として細川二郎と称したのが始まり。室町時代に、嫡流である京兆家は、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一つに数えられた。

六孫王神社

鎌倉幕府を創設した源 頼朝、室町幕府を打ち立てた足利尊氏、江戸幕府を樹立した徳川家康ら清和源氏の祖と仰がれる六孫王源 経基(897-961)を祀る京都の古社。この地には源 経基の邸宅があったとされる。寺社は、このように古(いにしえ)の記憶を現代に伝えている。社殿は応和年間(961-963)に経基の子の源 満仲が建立したのが始まり。但し、神社自体が衰退。江戸時代に遍照心院の南谷上人が幕府に懇請し1700(元禄13)年に再興された。江戸時代を通じて武家の守護神として諸大名の崇敬を集めた。

六条判官源為義の墓所

京都の下京区朱雀裏畑町の権現寺の横にある六条判官源為義の墓。為義は保元の乱で崇徳上皇方に与した為義は敗れ、後白河天皇方に与した実子の義朝によって斬首された。武士として覚悟があったとはいえ、なんと惨いことだろう。この戦いで平 清盛も叔父の忠正を斬首している。しかし、源氏の場合は親子。

義朝は為義に廃嫡扱いを受けたために鎌倉に下り、関東武士団を束ねる基礎を作ったと言われる。親子関係は良好だった訳ではない。しかし、保元の乱の戦後処理に際しては自身の論功行賞に代えて為義ら親族の助命を嘆願している。結局、これは受け入れられなかった。このことが、平治の乱へと繋がっていく。

さて、為義は七条朱雀で首を切られ、首実検の後、左京区北白川下池田町にあった北白河円覚寺に葬られた。それが明治45年に京都駅拡張に伴って移された。


2008年5月訪問

源 義朝公御廟

野間大坊は源義朝(1123-1160)の終焉の地。鎌倉で関東武士団との紐帯を深め、京都にいた父親の為義とは別の道を歩んだ。1156年の保元の乱の際には為義と袂を分って後白河天皇方に付いて平 清盛とともに崇徳上皇方を破った。しかし、戦後に平家が重んじられたことを不満とし、藤原信頼とともに平 清盛、藤原信西に対して挙兵(「平治の乱」)。清盛に敗れて、長男義平、次男朝長、三男頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)、源義信(平賀義信)、源重成(佐渡重成)、家臣の鎌田政清、斉藤実盛、渋谷金王丸とともに鎌倉を目指した。その途中で朝長、義隆、重成は深手を負って落命し、義平は志内景澄とともに京都へ舞い戻り捕縛。頼朝は逸れてしまい平家軍に捕われる。

どうにか尾張の知多まで辿り着いた義朝主従は源氏譜代の郎党だった長田忠致父子のもとに身を寄せる。安心して湯船に浸かっていた義朝は長田父子に襲われて落命してしまう。最期を迎えた義朝は「我に木太刀の一本なりともあれば」という言葉を残したという。そのために、義朝の墓には慰霊のために多くの木太刀が現在でも供えられている。


2006年7月訪問