大友氏

鎌倉時代、古庄(近藤)能成の子である能直が中原親能の養子となったのが始まり。能直は相模国大友郷を所領としていた為に大友を名乗った。

大友能直は、1188(文治4)年、源 頼朝より左近将監に任ぜられる。1193(建久4)年、曾我兄弟の仇討ちの際には、源頼朝の身辺を守り抜く。1196(建久7)年、源頼朝からから豊前・豊後守護兼鎮西奉行を任ぜられる。もっとも下向したのは三代親泰のとき。

1240(延応2)年、大友能直の死の直前の1223(貞応2)年に妻で後の深妙尼が所領を譲られる。深妙尼は京都大谷にあって3代大友頼泰の代まで所領を管理していた。

1240年、深妙尼は嫡男・大友親秀に相模国大友郷地頭司職、詫間能秀、一万田景直、志賀能郷ら庶子に豊後大野荘の諸職を贈与。

1272(文永9)年、大友頼泰は元寇の危機に際して鎌倉幕府より所領への下向を命じられる。既に下向土着していた、戸次重秀、野津原能泰、狭間直重、野津頼宗、木付親重、田北親泰らの弟達とともに九州警固の任に当たる。

1333(元弘3)年、大友貞宗は島津貞久、少弐貞経とともに、後醍醐天皇に呼応した菊池武時を討つとともに、赤橋久時の子・鎮西探題北条英時を博多の探題館に討つ。同年、豊後守護職を賜るも京都で病死。

1334(建武元)年、鎮西探題北条英時の一族・規矩高政、糸田貞義が挙兵。これらを少弐頼尚、大友貞載が討つ。

1336(建武3)年、足利尊氏が京都を追われ九州に落ち延びる途上、肥前守護大友貞載が戦死。足利尊氏の九州下向に伴い、菊池・阿蘇などの肥後方は後醍醐天皇に与し豊後玖珠城に篭城し反大友の狼煙を上げる。勢い付いた天皇方は大友家の本拠・高国府を攻撃。しかし、志賀能朝が良く守備し防戦。反転して大友軍は豊後玖珠城は落城せしめる。
大友氏泰は功績により豊後・肥前・豊前・日向守護職を得る。

1359(正平14)年、懐良親王(将軍宮)、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万と北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万が対峙。南朝方の勝利(筑後川の合戦)。

1370(応安3)年、室町幕府将軍足利義満と管領細川頼之は今川了俊を九州探題として派遣。12月に豊前門司に上陸。大友親世は、これを迎えている。

戦国時代、義長・義鑑・義鎮の三代で戦国大名にのし上がった。

詫間、一万田、鷹尾、田原、 戸次、木付、入田の各氏は一族。

豊後府内城


2012年11月訪問