松阪城址


2008年9月訪問

松阪は中世には伊勢国司北畠家の所領であった。織田信長は、北畠第9代当主北畠具房と争い、後に和睦し、子の織田信雄と北畠具教の娘・千代御前とを結婚させ北畠家の家督を相続させた。ここに、北畠具豊と名乗った織田信雄は1576(天正4)年に義父である北畠具教を攻め滅ぼし伊勢から北畠勢力を一掃。伊勢を制圧すると、1580(天正8)年に、居城を伊勢田丸城から松ヶ島城を築城し移った。本能寺の変、清洲会議の後、織田信雄はそれまでの所領に尾張を加えた100万石の大大名となり清洲城を居城として松阪の地を去った。

1584(天正12)年に豊臣秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、領内の飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)に1588(天正16)年に完成させた平山城。蒲生氏郷は織田信長に倣って近江商人などを城下に呼び寄せ、松阪を商都の地位にまで高めた。

残念ながら、蒲生氏郷は小田原征伐の後、1590(天正18)年に会津42万石の太守として松阪を離れた。豊臣秀次側近の服部采女正一忠が治めた後、古田兵部少輔重勝が城主となる。重勝は関が原の功によって2万石を加増。跡は弟・重治が相続するも1619(元和5)年に石見国浜田藩5万石に転封となり松阪藩は廃藩となった。

その後、徳川家康の十男・頼宣が和歌山藩主となると、松阪は和歌山藩領となった。天守閣は1644(正保元)年に倒壊したが、二の丸の徳川陣屋や表門、裏門、中門などは明治時代までは残っていたという。

伊勢国