佐竹家

久保田(秋田)藩佐竹家は20万5千石。上屋敷は下谷七軒町、中屋敷は本所十間川、下屋敷は浅草鳥越にあった。上屋敷は当初は内神田佐竹殿前にあり、鎌倉の佐竹屋敷から移築された日暮らしの門があったと伝わる。

佐竹家の祖は源義光の孫の源昌義。源義光は後三年の役に際して官職を投げ打って兄の源義家を助けた。その戦功によって常陸介、甲斐守となった。子の源義業が佐竹郷に下向。常陸国を勢力圏としていた常陸平氏の平繁幹の娘と結婚。常陸国で絶大な勢力を誇っていた常陸平氏との同盟によって地盤を築いた。源昌義はそれを受け継ぎ常陸国久慈郡佐竹郷に馬坂城を構え佐竹と称した。

戦国時代の佐竹義宣は常陸水戸54万5千石の大名。佐竹義宣が父の義重から家督を承継したのは天正年間。この頃、1584(天正12)年には弟で葦名家を継いでいた葦名義広の黒川城が伊達政宗によって落城。危機に晒されていた。伊達氏からの脅威に対抗すべく、佐竹義宣は豊臣秀吉と好を通じ、石田三成および上杉景勝と親交を結ぶ。

小田原征伐の際に石田三成指揮の下、忍城の攻略にも参軍。この功によって伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた滑津、赤館、南郷を豊臣秀吉から安堵された。しかし、佐竹義宣の所領のうち約半分は与力家来の所領が占めている状態で大名としての権力基盤は盤石とは言い難いものだった。そのため、佐竹義宣は豊臣秀吉の威光を背景として対立する江戸重通から水戸城を奪い、大掾清幹を攻めて常陸国の名門である大掾氏を滅ぼし大掾氏配下国人衆の南方三十三館を討伐し権力基盤を固めていく。

こうして1595(文禄3)年には、佐竹義宣の所領は当初の25万5,800石から54万5,765石を誇るまでになり、徳川氏、前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏とともに豊臣政権六大将と呼ばれるようになる。

ここまで所領を拡大させ権力基盤を盤石にすることが出来たのは豊臣秀吉の威光があったことが大きく、そこには石田三成との深い関係があった。このことから、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに際しては石田三成への義理だてから徳川家康による出陣要請に従わず中立を保つ。もっとも、徳川家康の東軍が西軍の岐阜城を落した時点で徳川家康に戦勝祝いの使者を立てるなど優柔不断さが目立った。結果、関ヶ原の戦いで石田三成が敗れると常陸国から秋田25万5千石への国替えを命じられることとなる。大幅な減封で苦しむ藩政の土台作りには小姓上がりの渋江内膳政光が尽力した。

なお、明治維新後は久保田藩であったが後に秋田藩と改められている。


佐竹家上屋敷跡の佐竹商店街。2009年12月20日訪問。

出羽国