隈部氏

隈部氏は肥後の守護大名である菊池氏の重臣であり赤星氏と城氏とともに菊池三家老と称された。

大和源氏の祖である源頼親から数えて五代目にあたる源親治は大和国宇智郡宇野荘を本拠地とし宇野七郎を名乗った。この親治は1156(保元元)年の保元の乱において、崇徳上皇・藤原頼長方に与していたが、法性寺一橋辺において、後白河天皇方の平清盛の次男である平基盛率いる軍と合戦となり捕縛。乱の後に後白河天皇によって赦免された。

この親治の子孫が肥後国に土着したことが隈部氏の始まりと伝わる。

この子孫は大和国と摂津国豊島郡に別れ宇野氏と豊島氏となった。太平記に登場する大森彦七盛長の伊予大森氏は宇野氏の流れを汲んでいる。

親治の長男である宇野有治は1180(治承4)年に源頼政が反平氏の兵を挙げるとこれに参加。しかし、敗れて法然を頼って出家した。

さて、隈部氏は、宇野親治の一族が肥後に下向し山鹿上水野に土着し米山城を居城としたことに始まる。

1264(文永元)年に宇野持直は菊池武房から隈部の姓を与えられ隈部を名乗ることになる。

菊池氏嫡流の断絶によって阿蘇氏から阿蘇惟長が菊池武経として入ると菊池家臣団の間に動揺が走った。この動揺は大友氏が菊池家臣団に干渉を始めると更に深まった。この状況を嫌って菊池武経は1511(永正8)年に隈府から矢部の本拠地に戻るに至る。ここで、隈部氏は長野氏とともに大友氏の支援を得て菊池一門である詫磨武包を菊池家の当主として迎えている。

この時に大友義鑑は弟の大友重治が成長した暁に菊池家の家督を譲る旨を菊池家中に認めさせている。大友重治は1520(永正17)年に予てよりの密約に従って菊池家の家督を承継し菊池義武と改名。

菊池義武は1534(天文3)年に大内義隆と相良氏と盟約を結び兄の大友義鑑に叛旗を翻すも敗れ肥前高来、そして相良氏を頼って逃れた。1540(天文9)年に相良氏、宇土氏を始めとする肥後南部衆とともに隈本に攻め入るも再び敗北。1550(天文19)年に大友義鑑が二階崩れの変にて横死すると、今度は鹿子木氏、田島氏らと連合して隈本の攻略に成功。更には肥後全土を制圧するに至る。

ところが、大友義鎮が隈府城を落城させると島原へと落ち延びた。大友義鎮の和平の誘いに乗って豊後に向かう途上で自害を強要された。ここに菊池氏の嫡流は滅んだ。

菊池氏滅亡後の肥後北部は大友氏支配下で隈部氏、城氏、赤星氏の旧三家老家が統治していた。但し、隈府城には赤星氏が城主となったので事実上は菊池氏を赤星氏が承継した形となった。

1556(弘治2)年、大友義鎮の加判衆でありながら大友家中の他紋衆(大友家の豊後入り以前からの国衆)を糾合して大友義鎮の同紋衆重視政策に叛旗を翻した小原鑑元が大友義鎮によって討伐される戦いにおいて戦死した木野親政の遺領を巡って赤星親家と隈部親永が鋭く対立するようになる。

遂に、1559(永禄2)年、赤星親家が隈部親永を攻めるも劣勢の隈部軍は赤星軍を隈府城まで敗走させた(「合勢川の戦い」)。

敗れた赤星親家が大友家に支援を求めるに至って、隈部親永は肥前の龍造寺隆信と同盟を結んだ。

このため、1578(天正6)年に耳川の戦いで大友宗麟が薩摩の島津義久に大敗すると龍造寺隆信とともに赤星親家の子の統家を追放する。

1584(天正12)年に島津義久が肥後国へと侵攻を開始すると隈部親永は籠城戦を1年余も戦い抜き最後には和睦に持ち込んだ。1586(天正14)年の豊臣秀吉の九州征伐に際しては抗戦することなく降伏し所領を安堵された。しかし、1587(天正15)年に佐々成政が検地を行うと、隈部親永・親泰父子は抵抗し肥後国人一揆の発端を作った。最初に籠城した隈府城は佐々成政によって落城。続いて、山鹿重安・有働兼元らと共に城村城に籠城した。

西国大名を主力とする豊臣秀吉軍が殺到する中、安国寺恵瓊の開城勧告に従って降伏。立花宗茂に預けられた後に父子ともに柳川城で切腹。これによって隈部氏の嫡流は断絶した。