三木城址

神戸の市街地から有馬温泉へと行く途上で立ち寄る。いや、立ち寄るというのは適切ではない。何せ同じ神戸電鉄でも三木城址のある三木上の丸駅と有馬温泉駅では方向が逆。つまりは、わざわざ立ち寄ったのである。酔狂なる城好きとでも言うべきか。

三木城は駅のすぐ裏手にある。築城は別所則治によるものであり、頃は15世紀後半の室町時代。別所則治は播磨・美作・備前の三国の守護である赤松政則に仕え、山城・安芸・但馬・備後守護の山名政豊と干戈を交えた。赤松政則によって、後に、播磨守護代宇野政秀(赤松則祐の6世の孫)の権限を西播磨半国守護代に縮小した上で、東播磨守護代に任ぜられている。

播磨国の交通の要衝に位置していたため、天文7(1538)年から8(1539)年に掛けては出雲の守護大名尼子晴久によって攻められている。続いて、1544(天文23)年には三好長逸や三田有馬氏によって攻められた。しかし、三木城は落城しなかった。

1578(天正6)年には織田信長配下の羽柴秀吉によって「三木の干殺し」という1年8ヶ月にも及ぶ兵糧攻めにされている。城主の別所長治(1558-1580)は当初は織田信長に従っていたが毛利攻略の総大将が羽柴秀吉であることに不満を抱き東播磨諸豪族と呼応して叛旗を翻したのである。羽柴軍との闘いの最中に荒木村重が織田信長への謀反に及んだことや毛利家による加勢によって、一度は羽柴軍を撃退している。しかし、羽柴秀吉による徹底した兵糧攻めによって城内が困窮するに至り、城兵の命を助けることを条件として別所長治夫婦は自害し開城している。

2012年4月28日訪問。