九条家

九条家は五摂家の一つ。藤原北家。藤原忠通の三男兼実を祖とする家柄。藤原基経の邸宅である九条殿を家名の由来としている。

藤原兼実の孫である九条道家の子である九条教実、九条良実、九条実経が摂政関白の地位に付き、九条教実が九条家、良実が二条家、実経が一条家を立てた。九条兼実の姉である藤原聖子(1122-1182)は、後冷泉天皇皇后であった寛子以来の父親が摂政関白在任中の入内としては80年ぶりに、崇徳天皇に入内した。聖子自身は子を為さなかった。しかし、鳥羽法皇の皇子で、後に近衛天皇となる體仁親王の准母となり、近衛天皇の即位(1141)とともに皇太后となった。1150(久安6)年には院号宣下を受け皇嘉門院と号した。保元の乱に敗れた崇徳天皇が讃岐に配流となると出家し、異母弟である九条兼実の後見を受けた。そして、兼実の嫡男である良通を猶子とし最勝金剛院領など皇嘉門院領を相続させた。この皇嘉門院領が九条家の経済的な基盤となった。

九条兼実は摂関家の権力を奪う形で、保元の乱、平治の乱の後に台頭した平清盛や後白河法皇と政治的に対峙した。このため、源頼朝が政権を握ると、その推挙によって摂政関白の地位に付いた。そればかりか、兼実の孫・九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子として生まれた三寅は、1219(建保7)年に鎌倉幕府第三代将軍源実朝が暗殺されると鎌倉幕府第四代将軍として鎌倉に迎え入れられている。

これは、源頼朝の父である源義朝と由良御前との間に産まれた坊門姫(1154-1145)、すなわち、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の同母妹が一条能保に嫁ぎ、その娘の一人が九条良経に嫁ぎ、もう一人が西園寺公経に嫁ぎ倫子を産んでいるということによる。頼朝の姉妹である坊門姫の血筋を伝える家柄だったのである。

三寅は1225(嘉禄元)年に元服し頼経となり、翌年に将軍宣下を受けて正式に鎌倉幕府第四代将軍に就任している。なお、第二代執権北条義時は1224(元仁元)年に逝去。実朝暗殺後に鎌倉殿の政務を代行してきた北条政子は頼経の将軍就任を前に1225年に逝去している。ともあれ、1230(寛喜2)年に鎌倉幕府第二代将軍源頼家の娘である竹御所を正室に迎え、将軍家は二重の意味で源氏の血を受け継ぐことになる。

しかし、1234(天福2)年には竹御所が逝去。第二代執権である北条義時の次男で名越流北条氏の祖である北条朝時(1193-1245)が鎌倉殿周辺で独自の政治勢力を築き始める。もともと、北条朝時は祖父の北条時政の名越邸を承継し、比企朝宗の娘である姫の前を母に持つ。比企氏は第二代将軍源頼家の外戚であった。ところが、比企家が北条義時に討ち取られ(比企能員の乱)、祖父の北条時政も娘婿にあたる平賀朝雅を将軍職に付けようとして失脚(牧氏事件[1205])するに及び、北条朝時の地位は極めて危ういものとなっていた。

このように、第四代執権北条経時(1224-1246、1242-1246)と第四代将軍九条頼経との関係が悪化していく中で、九条道家と同じく関東申次の職にあった西園寺公経が逝去。九条道家が鎌倉幕府の政治への介入を試みるようになると、1244(寛元2)年に頼経の将軍職を解任、頼経の子である九条頼嗣を鎌倉幕府第五代将軍として擁立した。加えて、翌年に経時は妹の檜皮姫を正室として九条頼嗣に送り込み北条氏は外戚としての地位を回復するとともに名越流北条氏ら反執権派の動きを封じ込めた。

鎌倉の動揺はこれで収まった訳ではない。前将軍の九条頼経は新将軍頼嗣の輔佐として鎌倉に残留したのである。更に、1246(寛元4)年に執権北条経時が危篤状態に陥り弟の北条時頼に執権職を譲り急死する。この急死を契機として、名越北条朝時の嫡男・名越光時が前将軍藤原頼経と共謀して新執権北条時頼に謀反の挙兵を行う(宮騒動)。時頼方が機先を制し兵を鎌倉市街へと入れた上で鎌倉の切り通しを固めたため、挙兵は失敗に終わり名越光時は伊豆江間郷に配流。前将軍九条頼経は京都へと送還された。その直後、頼経の父で関東申次であった九条道家を罷免し西園寺公経の子である西園寺実氏を関東申次に任命した。

将軍派である三浦氏は、なお、鎌倉幕府内で勢力を保ち続けたために、鎌倉では北条氏と三浦氏との武力衝突が噂されるようになり緊張が高まる。その中で、反三浦氏の急先鋒である安達景盛が高野山から鎌倉に入り現役に復帰する。安達景盛にとって執権北条時頼は外孫に当たる。三浦氏が実権を握ることは景盛にとって赦しがたかったのである。三浦方、北条方ともに兵力を鎌倉に入れ緊張が最高潮に達する中、執権北条時頼は平穏な解決を目指し、三浦泰村邸に佐々木氏信、次いで、平盛綱を派遣し和平を説き一度は合意に達する。

ところが、平盛綱が三浦泰村邸を出るところを見計らって安達泰盛が三浦邸を奇襲。ここに宝治合戦が幕を開ける(1247(宝治元))。三浦泰村・光村兄弟に与同し前将軍九条頼経の鎌倉帰還を望む勢力が毛利季光、関政泰、春日部実景、宇都宮時綱らを中心に集結。ここに至って、執権北条時頼も三浦氏討伐の兵を差し向ける。三浦光村は永福寺に立て籠り、三浦邸の三浦泰村とともに北条方を迎え撃った。やがて、三浦邸に火が射掛けられると、三浦泰村は劣勢を悟り源頼朝の眠る法華堂へ向かうために敵陣突破を敢行。光村は、なお、北条方を撃退可能だと進言するも受け入れられず、同じく永福寺から敵陣へ繰り出し法華堂で兄の泰村に合流。法華堂に集結した御家人衆は500名を数えた。このため、法華堂を包囲した北条方も突入すれば大きな損失は必至であり膠着状態に陥る。その中で三浦一族および与同した毛利氏ら御家人衆500名は一斉に自刃。戦後処理の中で、上総にあった三浦泰村の妹婿である千葉秀胤は北条方の追討を受け自害。こうして、宝治合戦は北条方の勝利で幕を閉じた。

1251(建長3)年には足利泰氏が無断で出家したとの理由で所領を没収。1252(建長3)年には謀反事件に九条家が関与したとして第五代将軍頼嗣が解任され京都へと送還。九条家の当主であった九条忠家も後嵯峨上皇の勅勘を被り右大臣を解任される。こうして、九条家による鎌倉幕府への介入の手段は完全に消滅するに至る。間もなく九条道家は失意の中で逝去。1256(康元元)年には頼経と頼嗣が相次いで逝去。

こうして、九条家は政治的に失脚したが、1273(文永10)年に九条忠家が関白宣下を受け藤原氏長者となるに及んで復権する。復権の背後には関東申次の西園寺実兼と執権北条時宗による働きかけによるものという。西園寺実兼の妹が九条忠家の嫡男である忠教に嫁いでいる関係によるものだろう。九条家は鎌倉との関係で権力を得、鎌倉との確執で失脚し、鎌倉の後押しで復権したと言える。但し、九条道家の遺言によって家長者を相続していた一条家は九条忠教への家長者譲渡を拒否している。鎌倉幕府が滅亡するまで一条家の優勢は覆らなかった。

九条家と一条家の確執は室町時代に至っても続く。ところが、室町時代中期以降は九条家の地位が上昇。江戸時代には九条家の石高が一条家を凌駕し家長者の地位は九条家に定まった。